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吉田松陰の討幕論と安政の大獄
【2010/12/06 12:51】 エッセイ
安政5年、日米修好通商条約が勅許を得ないまま調印された。これに怒った松陰は『大義を議す』という時務論を書いた。時に安政5年7月13日。ここで初めて松陰は討幕を唱える。尊皇開国の考えをかなぐり捨てた。『戊午幽室文稿』に収載されているので討幕に触れた部分を書いてみる。
吉田松陰自賛画像2012.4.13


「今征夷は國患を養ひ、国辱を胎し、而して天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。然らば則ち陶なる者は一国の賊なり。征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん。而して洞春公の神、其れ地下に享けんや。義を正し道を明らかにし、功利を謀らず。是れ聖賢の教へたる所以なり。勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり」。(吉田松陰全集第四巻:372頁)
ここでは、幕府を「征夷は天勅に叛いた天下の賊」と決めつけている。その昔、主君の大内義隆に謀叛を起こした陶晴賢を討った、毛利元就の義の戦いに準えて「義を明らかにし道を明らかにし・・・逆を討つは義(正義)なり」と言っているのである。儒学の申し子のごとき松陰は、「道」や「義」の徳目を旗印にして公然と討幕を口にしたのであった。



この頃を境に、「松下村塾」は急速に「政治結社」の如き観を呈してくる。主宰者たる松陰は、この後、次々と反幕的プランを立て、将軍継嗣問題が慶福(家茂)に決定したのは、紀州藩附家老の「水野忠央」が井伊直弼の背後で操っていると睨んだので、門下生に松浦松洞に暗殺指令を出す。
井伊直弼24.3.25

安政の大獄で水戸藩は弾圧の標的(戊午の密勅)となり、怨嗟の声が沸き起こり、井伊直弼への復讐計画となる。これを聴いた松陰は、「ならば、長州藩は勤皇の魁として老中間部詮勝暗殺」計画を立てる。梅田雲濱や梁川星巌への探索、逮捕の過程で、松陰の時務論(愚論、続愚論)が井伊の腹心、長野義言の知る所となり「長州藩吉田寅次郎と申者、力量も有り、悪某之働抜群之由」(井伊家史料・14)と不逞の輩として注目し、井伊家側用人・宇津木六之丞への書簡で報告される。それで長州藩に松陰の江戸檻送の幕命が下るのである。従って松陰が大獄に連座するのは長野義言の建言になるものである。しかし、松陰は自身の反幕的言動が幕府の探知する所と思っていたが、実は評定所でのやりとりでそうではなかった事に気付くが、自らの信念を語り出し、これが命取りとなった。

しかし、松陰自身は肉体は亡びても魂は生き続けるとの思いがあった。そのため死罪の判決にも従容たる態度で天晴れな最期を遂げ、山田浅エ門(死刑執行人)をして後々まで語り伝えられたのであった。それ故に遺書となった『留魂録』の書き出しは「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」という有名な辞となったのである。
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