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私の吉田松陰との出会い
【2011/01/07 20:15】 エッセイ
平成18年、私は37年間務めた会社を定年退職し、現在は厚木市にある松蔭大学で「吉田松陰論」と云う「人物研究と建学精神」を主たる内容とした講座を担当しています。
7年前に小学校時代の同級生に誘われて大東文化大学の「市民大学講座・松陰と幕末」の聴講に行きました。それが機縁でこの講座の講師依頼を引き受けることになりました。依頼を受けた時、どうしようかと迷いましたが、迷うのは可能性があるからだと学んだ記憶があります。ですから、自分の心の中で可能性があると思ったのでしょう。そして、与えられた演題は「松下村塾と各藩校」という、江戸期の教育をテーマとしたものでした。
吉田松陰



講師の機会まで7ヶ月ありました。運良く、慶應大学の史学科に在籍していた時に「近代教育史」をかなり勉強したことがあったので、その時のテキストを読み直して、参考文献や研究書籍を手掛かりとしました。開講3ヶ月前にレジュメの提出を催促されましたが、勉強が間に合いません。当然レジュメが書けず、四苦八苦の毎日です。一日が24時間では足りません。
最後は、書きっ放しの状態で提出。心配と悔いとが残りました。依頼したのは大学でなく、その先輩講師からでしたから、キチンとしなければ先輩も大学からの信用を失う可能性があり、大学と先輩の両方に信用失墜を招くことになります。次年度の講座開講にも影響を与えかねず、そしてまた、承諾してしまった以上取り消せません。「退路が断たれた」状態ですから、やり抜くしか道はありませんでした。レジュメ提出後も必死で勉強を続けて当日を迎えました。当時は娘が海外勤務でした。その娘が、シンガポールから応援に帰国して励ましてくれ、その上に聴講までしてくれました。

当日は、「これが現在の私の精一杯」と妙な納得感を覚えながら大学に向かいました。ところが、始まってみると意外にスラスラと話が出来るのです。原稿を見ることなしに、時に「今の話は、レジュメの何頁に書いてあります」と聴講生に説明が出来るのです。内心はヒヤヒヤものでしたが、無事90分を終えました。教室の後片付けを終えて、事務所に挨拶に行くと、職員の方々が私に対してニコニコして、「聴講生の方々が、今日の話は面白かった!」とお礼を言って帰ったと言ってくれた。すぐには信じられなかったが、終了後に仲間と反省会を兼ねて、数人で一献の時にも楽しく聞けたと言ってくれた。これで苦しんだ7ヶ月の苦労が報われたと思いました。

次年度も依頼があり、今度は二コマに増えました。これも無事に出来たのですが、この情報が松蔭大学の副学長に伝わったらしく、お会いした時に「定年は何時だ?」と聞かれて、退職後は大学に来て講師をやってくれと話が発展しました。これが私と吉田松陰との出会いなのです。

ところが、いざ突っ込んだ研究をしてみると、これがなかなか大変なのです。とにかく難しいのです。現存している松陰研究者の第一人者が「吉田松陰は奥が深く、研究を重ねても、これでよい」となかなか達成感が得られた気持ちになれないと著書で述懐していますが、確かに骨が折れて、時にギブアップしたくなる時もあります。半世紀にも及ぶ研究の第一人者でさえこのような感慨を持つのですから、簡単ではないと容易に想像が付きました。
いわゆる学者でもなかった吉田松陰の全集は10巻、およそ6~7千頁にも上ります。収載された内容は多岐に渡ります。漢文と中国史(特に古代思想)に精通していることと、幕末史や毛利藩に詳しいことが松陰研究の第一条件として要求されます。
今も「10年間辛抱ですよ!」と副学長に励まされながらの勉強です。会社員からの松陰研究者への転向といえば、外見は大きな問題もなく、つつがなき生活が連想されるように言われますが、内実は悪戦苦闘の毎日なのです。お陰で我が家の中は松陰に関する本だらけです。自分の読み返したい本がどこにあるのか探すだけで苦労することがしばしばです。しかも、大学の研究室にも関連本を沢山持ち出してあるので、所在不明で困ることが絶えません。

全集を読むと初めて見る古くて難しい漢字が並び、読書意欲を萎えさせることもしばしばです。唯一の救いは、長大な述作が少ないことです。五千字を越える著述で、しかも文語調、難解な漢字、複雑な時代背景と思想を生み出した状況を読むのは根気が要ります。
江戸期の知識人の漢字能力は驚くべきもので、今日云われる「漢字検定」などの比ではありません。ワードで変換は出来ない、手書きでも出てこない、諸橋轍次の大漢和辞典でないと太刀打ち出来ないのではないか?と思えるような難解な漢字がずらりと並んだ頁は1頁さえ読むのに意欲が萎えてしまいそうです。

こうして、7年前の私と吉田松陰との出会いは、その後も格闘が続いています。昨年、友人がブログを開設してくれて記事を70篇前後書きましたが、いわゆる「松陰ファン」は全国に多いのです。ハンドルネームを、例えば「函館の志士」のように、在住地に志士を冠したコメンターが数多く記事を寄せてくれています。皆様相当な知識と見識を備えた方のようで、読み応えがあります。最近の「尖閣諸島」領有問題では、伏在していたナショナリズムが一気に噴出したかのように沢山書き込みがありました。ブログ作成者が管理者をやってくれて、公表に値しない記事は削除してくれているので大助かりです。

明治24年以来、250冊を越える「松陰関連本」が出版されているそうですが、それだけ魅力がある人物ということの一端を物語るのかも知れません。日本の歴史上の人物で人気投票をしたら間違いなく上位の何人かに入るだろうと解説を書いた研究者がおりますが、幕末期の衰えない人気と相俟って、松陰の生涯は日本人の心を打ち続けるものと思われます。 鎖国体制の下で密航を企てた大胆な発想と行動、「死の恐怖」を感じさせない処刑場での従容とした態度が「武士道のお手本」として描かれ、そして短期間の教育で少人数の門下生の中から明治時代の閣僚や指導者、先駆者を多数輩出させた謎の私塾教育を明らかにしようと研究する識者が今でも沢山おります。折しも、一昨年が松陰没後150周年で沢山の松陰本が出版されました。私も6年前に「萩」を旅行して、初めて松下村塾を見た時の印象がとても強く、今でも忘れられない思い出として瞼に焼き付いています。

安政3年9月に書かれた『松下村塾記』で松陰は次のように言っています。「学は人たる所以を学ぶなり」と。これは至言ですね。さらに学問への取り組みにあたって「万巻の書を読むに非ざるよりは寧んぞ千秋の人たるを得ん!」と言って門下生を鼓舞したのです。そして最後に『留魂録』を遺書として門下生に後事を託し、それが秀でて実るがごとき教育の成果を生み出したのです。長州出身の明治の指導者のことごとくが、この松下村塾で松陰が育てた人たちであったのであります。それ故に松陰は、自分で門下生に呼びかけた如くに「千秋の人」となったのであった。享年29歳2か月の短い生涯であった。

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