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幕末政治史の一側面
【2011/01/08 21:49】 エッセイ
<文久2年~元治元年における一橋慶喜と松平慶永の政治主張の相違>

松平慶永は文政11年(1828)9月、御三卿の一つ江戸城内・田安家に斉匡(なりまさ)の8男として生誕。祖父の治済は一橋家第2代当主、徳川11代将軍の家斉は伯父、12代将軍の家慶は従兄にあたる。長兄の斉荘(なりたか)は尾張藩12代を、次兄の斉位(なりたつ)は一橋家第5代、兄の慶寿も一橋家第7代、弟の慶頼は田安家第5代を継ぎ、後に慶喜の先任で将軍家茂の後見職、末弟の慶臧(よしつぐ)は尾張家13代と華麗な閨閥を誇っている。
一橋 松平




天保9年11歳の時、親藩で徳川御家門第一の門閥である越前家を嗣ぐ。元服時に将軍家慶の「慶」の字を貰って慶永と名乗る。中根雪江、村田氏寿、橋本左内、長じて熊本より迎えた横井小楠と有能な側近に恵まれ、一方では当代の島津斉彬、山内容堂らの有力大名との交わりで識見を涵養し、安政4年時にはすでに越前の藩論を開国に纏め上げた。
そして幕府の外国方策下問に対しては、諸藩に先駆けて積極的開港論を答申している。文久2年、島津久光の京都朝廷への建言により勅命が幕府に下り、大老職への建策が、それを超える政事総裁職に就任することになった。やや長い彼の経歴を記述したが、後の彼の政治主張との関連において意味を持っている関係上これを先ず記しておく。

一方の慶喜は水戸家第九代斉昭の7男として、天保8年(1837)、江戸小石川水戸藩邸にて生誕。弘化4年、慶永と同様11歳にて一橋家を相続、将軍の後継権を得る。その翌年慶永、島津斉彬等、当時の開明派諸侯達と会うことになる。当然のことながら開明派は概ね開国論者であった。後の国策を巡る開国か攘夷かでは慶永と同様、開国論の立場であり、むしろ慶永以上の積極開国論の立場を取っていたのである。
文久2年7月、慶喜は慶永の政事総裁職とほぼ同時期に将軍後見職に就任する。

就任後間もなく島津久光一行の江戸からの帰国途次に発生した生麦事件に対し、英国人殺傷の現地調査を行なわせた。この処遇を巡って、両者は意見を異にする。即ち慶永は「国憲を紊る薩藩の凶行者を放置すれば、内外に対する幕府の権威は地に堕ちる」とし、法を正すべきとの主張をする。これに対して慶喜は「薩藩に対し幕府が強行態度を取れば薩州の抵抗をきっかけに全国の騒乱を醸す」として消極的であり、これに対し慶永は辞職を決意したのであった。一方の慶喜は将軍後見職としてはやや事なかれ主義であり、見識を示すに至っていない。   

この時点では慶永の幕政沈滞に対する粛正意欲が見られるのである。慶永は幕政に参加した直後に、従来の幕府の御都合主義のありかたを私政であると見抜き、幕政を全うするためには将軍自ら上京し,朝意を汲んで国是を決定すべきと考えたのである。

開国か攘夷かを巡る開鎖問題は、当然幕政上の最重要課題であった。京都では尊攘派公卿や、藩論を攘夷とした長州藩をはじめとする過激派諸藩士の活発な建策等もあり、攘夷論が力を得ていた。朝廷は文久2年9月、攘夷方針を採用して攘夷別勅使を江戸に派遣することを決定する。攘夷督促が必至の情勢下にあって、慶永はこの機会に幕府内部で根本的な考え方を確定しておこうと建言する。
慶永の説は、彼のブレインである横井小楠の論によるが次のように主張された。即ち今の条約は幕府が追い詰められて仕方なく結んだもので永遠の大計とは言えない。必戦の覚悟を持って断然破却し、その上で全国の大名小名を会し、将来の国是を議し天下一致して積極開港の方向へ踏み出そうという、いわゆる破約開港論である。この主張が9月19日である。しかし幕府幹部は皆反対の挙句、長州と組したと疑われた慶永は憤慨してストライキに入る。破約は勅許も得ていないことも含めて攘夷論者に妥協、そして対等な立場で開国条約を締結し直す。その為には武備充実を図る必要があるとする考え方である。

此れに対して、慶喜はこの10日後、断然反対の積極開港論を主張した。曰く「これまで条約が不正だと言うのは国内的にはそうとも見えるが、外国人との関係では政府と政府との間に取り交わした条約であって絶対に不正ではない。破約は問題にならず、仮にそれで戦争となれば日本が曲、外国が直である。勝っても名誉にならず、負けて諸大名を集めて会議しても時勢のわからぬ愚論が百出すれば幕府として説明に手間が掛かるだけである。そんな事より、自分が京都に行って「万国一般天地間の道理に基づき互いに好みを通じる今日なれば独り日本のみ鎖国の旧套を守るべきに非ず、故に我より進んでも交わりを海外諸国に結ばざるを得ず』との趣意を天皇に説明する」、と。
慶永のように攘夷論と妥協などせず、これと真向対決し幕府権威の維持拡大を果たそうとするものである。この主張に慶永は全面的に賛意を示した。

しかし一方では慶永はそれについて、もし慶喜が上京して開国論を説き、それが通らなかった場合には政権を返上するだけの覚悟があるか、あるならそれを幕府幹部に開国説を徹底させようと提案するが、それについては慶喜が反対する。彼は政権返上をバックに開国論を説くのは反対だった。 このため、慶永は破約開港論に逆戻りする。そして今後は慶喜が慶永説に反対しないことで幕府の意見統一となる。そして10月27日、山内豊範が随従して攘夷別勅使が江戸に到着。慶永を含めた幕府は、一応攘夷の勅諚奉承を内定するがこれには慶喜が反対。12月5日、最終的に条件注釈付きで幕府は攘夷奉承となる。


文久3年初頭、将軍上洛前の京都に公武合体の素地作りのために、大坂の警衛向を視察し時宜により上京せよとの下命により、慶喜は上京する予定になっていた。

この頃仏軍艦が大坂に入港し、京都に圧力をかける風評が立っているのに便乗して、慶喜は尊攘派の跋扈跳梁している京都を幕府の武力で制圧しようと、京都守護を名目に2万の兵を率いて大坂に上ろうと慶永に相談している。
しかし慶永は破約必戦論の考えを引き続き抱いており賛成しない。むしろ慶永は島津久光等と組んで、京都で雄藩代表者会議を開く構想を持っていた。従って慶喜の考えは実現せずに翌文久3年1月慶喜が、続いて2月に慶永が入京する。これを受けて過激派公卿12名が朝廷に対して幕府首脳が揃ったから速やかに攘夷期限の決定報告を慶喜等に命ずるようにとの要求をし、それが実行された。
三条実美が勅使として慶喜を訪問し攘夷期日の決定を迫った。この勅命に対して慶永は妥協すべきでないと強く主張するが、慶喜は将軍が上洛して公武合体が実現すれば解決するとして期日決定報告をするべきと主張する。京都情勢を見るに、反幕府勢力の強さは将軍が上洛しても彼らを圧服出来ないとの慶永の判断に対し、慶喜は将軍の権威を強いものと考えており、上洛即反幕勢力圧倒が可能との認識で、この慶喜の考えが3月14日に奉答となった。その期日とは将軍帰府後20日、4月中旬である。

京都に来てからの慶永は、政権返上論乃至政令帰一論を主張する。朝廷では新たに国事参政、国事寄人の両役を派遣し過激派公卿をもってこれに任じ尊攘派勢力の増大に拍車がかけられた状態になっていた。そこで、この情勢を判断するに朝廷、幕府の両者から政令が発せられ、しかもそれがくい違っているために混乱があるのであるから、この是正のためには政令が朝廷か幕府か何れかに一本化すべきである。幕府に対する政務委任の明確化を迫る意味も含めて,朝廷が自らの責任で政治を担当するなら幕府は政権を朝廷に返上すると申し出るべきであると主張した。即ち幕府に完全に任せるか、さもなければ政権返上するかだと言うのである。

過激派にそそのかされ、あやつられて政権担当ビジョン、意欲や能力を持ち合わせてないくせに、幕政に対する容喙の勅命を連発する朝廷に対して、やれるものならやって見よとの主張である。
幕府に完全に任せろという点では無論慶永も慶喜も一致するのであるが、慶永の思いは幕府と公武合体派の雄藩や公卿の力で朝廷がその方向で纏まってくれれば申し分ない。しかしそうならなかった時、政権返上という二者択一の考えに慶喜はなれなかった。前年にも慶永に同様の問い詰めをされており、これが更に切羽詰った思いで主張されたわけである。そこで恐らく慶永の主唱で、開国問題も含めて一切を幕府に任せると朝廷に言わせるための最後の工作が2月20日に行なわれた。関白鷹司、中川宮、近衛前関白らは自信がなく、更に慶喜、慶永が天皇に直談判を申し入れても尊攘派公卿抜きでは決論は難しいなどと消極的な応答しか得られず、慶喜と慶永が一致できる幕府への完全な政務委任の対朝廷要求は、平和的話し合いでは獲得できなかった。

これにより慶永は政権返上論に固まることになる。攘夷実行という出来ないことを約束してまで政権にしがみついていることはないとの考え方である。3月3日、慶永は大津に将軍を出迎えてこの政権帰一論を建白するも採用されず,政事総裁職の辞表提出となる。慶永の意図するものは、開国論を主張し京都の攘夷論に圧力をかけ、幕府を側面から援助するとの狙いを持った建白なのであった。極論ではあるが慶永は幕府にあまり拘っていないと言ってもよい。必ずしも幕府を否定するものではないが、日本を統治するのは幕府であってもよし、またそうでなくてもよく、要はどういう政治をするかが彼の政治主張の根本にあったと見られる。雄藩連合構想の実現によって、より理想とする政治が出来るならそれはそれでよい。親藩とはいえ在野の独立の一大名という立場も影響しているのかもしれない。しかし一方の慶喜はこれとは異なる。御三家の一つたる水戸徳川家に生まれ、更には御三卿の一橋家の当主となり、この何れもが将軍位継承権を保持する家柄である。加えて将軍後見職である。就任のいきさつはどうであれ慶喜は自分が後見している将軍と将軍位を守り通さなければならない。若い将軍に何かが起こればそれは後見職たる自分の責任なのである。したがって慶永の主張するような政権返上論は将軍後見職時代の慶喜には主張できず、むしろ彼自身の考え方の中では体面論が優先している場合があったといってよい。

文久3年8月18日の政変によって、長州系尊攘激派は京都から締め出され、これに替わって公武合体派が政変後の京都においての主勢力となった。この公武合体派を中心とする諸侯で構成する参預会議がその歳遅くにスタートする。大津での政権帰一論建白以来、藩地越前に戻っていた慶永も許されてこれに参画することになった。慶喜は幕府代表の立場で同じく参加した。この間の参預会議の重要案件は、神奈川鎖港談判の件、長州処分の件、大坂沿岸防備強化の件、そして京都守護職のことなどであった。公武合体の推進では将軍の再上洛を機に慶喜は参預会議の開国論から幕府の鎖国~横浜鎖港論に乗り換えた。併せて長州に対しては強硬な処分推進をすべきとの考えである。
 
この何れもが慶永の主張とは反対であった。即ち慶永は長州問題については横浜鎖港のための外交折衝中なれば、国内紛争の勃発を極力回避すべきであるとして、平穏に寛容性をもって長州藩と話し合うべきであるとした。鎖港については必ずしも成功の見込みはなく、中止するべきであるとの主張であった。松平容保が陸軍総裁職に転出した後、京都守護職は慶永がその任にあったが、彼の開国論は幕府の方針に反することや、慶喜が慶永の建言や忠告を煙たがる態度が明らかとなり、慶永は京都守護職解任の願書を提出してこれが受理されるに至る。

この様に慶永は常に終始一貫して開国論の立場をとり続けるのであるが、反対に慶喜は幕府側の主張や体面論に流され、時にそれが変化した。慶永は政治ビジョンとしては体面や体裁にあまり拘らず柔軟に考え、時には幕藩体制の限界を超えてなお、あるべき統治策を模索して主張し建言し続けたのであった。それ故に慶喜は幕権強化や維持策の中で考えて慶永とは対立する政治主張となったのであった。
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