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「大隈さんの早稲田」と「慶應の福澤先生」
【2011/01/12 09:29】 エッセイ
1月10日は慶應の創設者・福澤諭吉の誕生日。176年前の1835年1月10日(旧暦の当時は、天保5年12月12日)である。幕末維新期の活躍者は、その大半が天保年間に誕生している。天保年間は、江戸期の和暦では15年も続いたから多くの人材誕生となる時期となったのかも知れない。徳川慶喜の「政権返上」の頃、25歳から35歳位のいわゆる「働き盛り年齢」と重なったためであろう。
福澤諭吉も大隈重信も共に天保年間の生まれである。
大隈と福澤


「維新の先覚」と云われる吉田松陰が1830年の誕生で、この年の12月に文政から天保へと年号が変わる。ことばを変えて云えば、吉田松陰は天保の幕開けに生誕したしたことになる。



さて、本題に入ろう。この1月10日、毎年恒例の『福澤先生誕生記念会』が三田の慶應義塾大学西校舎講堂で催された。友人に誘われて、慶應中退の私が一緒に参加してきた。
福澤を称える合唱団の歌に始まり、清家篤塾長の挨拶(実際は40分あまりの福澤講演)、そして記念講演と福澤家の代表挨拶、小泉信三賞の贈呈式、この所要時間は120分。真に有益な時間を持てたと、誘ってくれた友人に感謝であった。

圧巻は、塾長の挨拶であった。福澤の代表的著作『学問のススメ』にちなみ、これを現代版に敷衍して「学問の効用」を理路整然とした語り口での挨拶だった。というよりも、「名演説」または「名講演」といった方がはるかに相応しい内容であった。
そもそも、「演説」の元祖は福澤諭吉である。三田の「演説館」は貴重な文化財のみならず、慶應義塾のシンボルでもある。
福澤諭吉24.3.31


「天は人の上に人を造らず・・・」で書き出された『学問のススメ』は、続いて「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるに由りて出来るものなり。」と誠に平易に綴られている。
この「福澤精神」ともいうべき「学問の効用」が広く、深く、史的に知性あふれる内容で語られたのであった。
話の内容があまりにも素晴らしいので、メモをとり始めるが私の手帖では小さな為、ペンの速度が追い付かない。それでも、走り書きで2ページになった。
そして、学問の効用は人類の進歩への貢献に収斂されると結んで、挨拶終了。聴衆の一人として、もっと、もっと沢山聴きたかった。最後の印象は、「福澤諭吉は何と幸せな人なのだろう!」が私の率直な感想である。吉田松陰の言葉ではないが、まさしく福澤諭吉は「死して不朽の人」である。(もちろん、生存中も幸福な人生)

云い得ぬ感動を覚えながら、終了後は友人と記念写真を撮り、図書館旧館一階の資料室で「福澤諭吉事典」をサービス価格にて注文、そして「福澤研究センター」の表札を眺めながら帰路につく。上野駅近辺で、友人と一献。楽しくて話題が尽きない。「飲み、かつ、語り続けること、およそ3時間」の満たされたひとときを過ごす。
清家塾長の語った内容が、後日、読めないものか?と、名残惜しい気持ちだ。
慶應義塾大学2012.3.30



そして翌日の1月11日、今度は「佐賀偉人伝叢書」の『大隈重信』が我が家に郵送されてきた。送って下さったのは、早稲田大学の島善高教授。
島善高先生


私の恩師の著書である。1月10日に刊行される予定と伺っていたが、その翌日に到着とは感動。100頁余りの本だが、魅せられて一気に読了。
大隈重信24.3.29


母校の創立者だが、福澤諭吉と正反対で殆ど著作を残さなかったかった大隈重信の人生。そのため、わずかに伝記的な書物を何冊か読んだ程度である。福澤の「筆まめ」に対して、大隈の「筆不精」が原因して、「伝記」や「研究書」の発刊数が圧倒的に少ない。
生涯に二千通近い書簡を残し、岩波書店から『福沢諭吉書簡集・全9巻』が刊行されているのに対し、大隈さんは「ゼロ」。
実は、大隈さんの筆不精には「秘話」がある。弘道館時代に「文字が下手だ!」と云われたことが、悔しい余りに「文字を書かない」と決心したのだそうである。反面、人徳もあってか、大隈さんの「耳学問」は一般の人からは信じがたいほどの記憶力と理解力を発達させたのだろう! という人がいたそうである。今流にいえば、情報量がずば抜けて多かった人と云えるのである。「致遠館」で洋学を学んでいたとき、先生役のフルベッキから、秀才のお墨付きをもらった大隈さんである。
そのためか、生涯における「演説」の回数は、記録的だったそうである。22頁に次のように書かれている。「大正二年十月から十一月にかけて、大隈は旧佐賀藩主鍋島閑叟の銅像除幕式出席のため郷里佐賀へ帰った。この道中、百十九回もの講演を開催(延べ聴衆十六万七千人)、大隈は国民的人気を博していた」。
大隈侯と講堂2012.3.30


福澤諭吉が「筆まめ」なら大隈は「講演まめ」と云ってよいだろう。明らかに正反対の表現方法をとったわけである。しかし、大隈さんは福澤諭吉より三年遅い1838年に誕生している。そのためもあってか、生涯福澤を尊敬し続け、大変深い親交があったとのことである。その大隈さんが朱子学一辺倒の藩校の学問に不満をおぼえ、洋学の「致遠館」で猛烈に勉強した秀才だったのである。読んでいながら、大隈さんは、福澤諭吉の後を追いかけているのでないかと、錯覚を起こしそうになるのである。この二人の異同は、実に興味深く、「ジェファーソン」の独立宣言を一生懸命勉強したのも、神の導きがあったのではないか?と思わせるのである。
そして、大隈さんが勤皇思想に入り込んでいくきっかけは、「枝吉神陽」(佐賀藩の藩校の教官で、副島種臣実兄)の主宰する「義祭同盟」に参加したことからである。この枝吉神陽は、長州の「吉田松陰」と同様、門下から多くの有能な人材を育てたのである。明治新政府の司法卿を務めた、江藤新平もそうである。

「政治は我が命」といった大隈さんだったが、生涯で総理大臣を二度、外務大臣に至っては五度も就任したのだそうである。世間一般には「大隈侯」とか「大隈老侯」と呼称されることが多いが、これは「侯爵」だったことからの尊称である。
実は「幻の公爵」の挿話が51頁から54頁までに克明に書かれている。公爵の推薦状(大正11年)が写真で掲載されていて、大変興味深く見られるのである。事情は、この時の宮内大臣・大久保利通の2男である牧野伸顕が「過分である」として申請を握り潰したようである。ここにも薩摩・長州ではない大隈さんの出自がからんでいたのだろう。世に「薩長土肥」といわれるが、その「薩長」と「土肥」の間には、越えがたい大きな溝といえるハードルがあったようである。その証拠に、大山巌のように軍人としての功績だけでも「公爵」である。彼は、西郷隆盛の従兄弟であるから薩摩なのだ。

そうして、この両巨人の出会いが、32頁に大変感動的に書かれている。少し長いが、そのまま書いてみる。「大隈の立憲思想の深化に大きな影響を与えたのは、大隈よりも四、五歳年長の福澤諭吉であった。明治六年(1873)に初めて会った二人は、西洋文明を日本に注入するという点では「一心両体」で、大隈は福澤の人格に惚れ込み、また福澤の学問的素養に深く感銘を受けた。 大隈は、また福澤から紹介された門下生の矢野文雄、中上川彦次郎、小泉信吉、犬養毅、尾崎行雄、牛場卓蔵らを適宜、官庁に配し、彼らからも西洋思想を存分に吸収した。福澤は大隈に、「憲法政治を起すなら己れも力を添える」と言ってくれた。」と。
また、「学問の独立」の項では、福澤と大隈の思想が相重なる部分が非常に多いのである。この「独立」なることばは、福澤の金看板のイメージがあるが、実はこの本を読んでみると、大隈もこれを非常に大切にしていたことがわかるのである。「独立自尊」、「学の独立」は早稲田、慶応の建学精神または理念である。驚くほどに、早稲田、慶應は相通ずる思想の下での学問観があるようである。

この島善高教授の本は、大変に歯切れのよい文で綴られているので、非常に読みやすいし、わかりやすい。早稲田・慶應にご縁のある方々には必読の書であると思う。読後感の何と爽やかなことか、一気に読了してしまった。読んでいくうちに、あれよ、あれよと魅せられてしまうのです。筆力のなせる業だと、感じ入ってしまったのある。
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