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松陰の東送(江戸送り)
【2011/02/03 15:37】 エッセイ
「帰らじと思ひ定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」・・・この歌は、安政六年五月、幕府から呼び出しのため、萩を旅立った時に詠んだ歌である。
井伊直弼正装24.3.25


萩城下から「萩往還街道」を通って、瀬戸内海に出る道があるが、萩の郊外に「大屋」と呼ばれるところがある。ここに一本の「松」がある。萩から江戸へ向かう時、萩の城下町市街が見えなくなる場所なのだそうである。ここには「涙松」という石碑も建っている。故郷への郷愁に、万感の思いを込めて振り返り見ることの出来る最後の場所なのだそうである。「死」を覚悟していた松陰は、再び見ることのできないであろう萩城下の市街を見納める心中を詠ったものである。

事実、結果は残念ながらその通りになってしまった。一か月かけて江戸に到着した松陰は、先ず「藩政府」の役人の取り調べを受けつつ、江戸屋敷の「牢」に入れられ、幕府の取り調べの呼び出しを待ったのである。安政六年(1859)七月九日、第一回の取り調べが行われた。嫌疑は二つであった。一つは、前年九月に逮捕されていた「梅田雲濱」と謀議をこらしたのではないか?であった。松陰が萩の松下村塾を主宰していた頃、梅田が萩を訪問し、松陰と会ったことで、反幕府的な相談をしたのだろうと疑われたのであった。もう一つは京都の御所に「落とし文」があり、この筆跡が松陰に似ているとの梅田の言であった。
二つとも、松陰は明快に説明し、取り調べに立ち会った三奉行は納得したのだが、問題はその後である。

下田での密航に失敗して蟄居の身であるのに、江戸や京都の情勢をはじめ、ハリスとの条約交渉などの情報が詳しいことに疑問を持った奉行は、この際「思うところを述べてみよ!」と松陰に陳述を促したのである。
萩を出発する時から、幕府への批判や意見を建策する絶好の機会と考えていた松陰は、この時とばかりに持論や尊王攘夷の決起プランを口走ってしまう。とりわけ老中であった「間部詮勝」要撃策を打ち明けたことから、事態は一変した。すぐに「揚がり屋」入りを命じられて、伝馬牢に収監の身となったのであった。

安政の大獄は、井伊大老の無断勅許での条約調印を責めた「幕政批判者」と「公卿に反幕府の工作」をした志士たちの弾圧策であり、この意味では松陰は直接の関係はないが、長州にあって幕政批判の言動が弾圧の探索網によって、幕府にそれが探知されたことによる。
「藪蛇」という言葉があるが、まさに松陰は、取り調べの際の自白が命取りになってしまった。しかし、「松陰精神」は門下生その他に受け継がれ、死して十年後には討幕が実現し、明治維新という日本の歴史上、最大の変革となったのであった。
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