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吉田松陰の「人間観」と「学問観」
【2011/02/04 17:26】 エッセイ
「学は人たる所以を学ぶなり」と松陰は『松下村塾記』で明言している。これが書かれたのが安政3年(1856)9月4日で、松陰27歳の時である。
松陰を学ぶ者は、この「建学宣言」ともいうべき文稿を、彼の生涯で最も大切にすべきものであると受け止めなければならない。
「吉田松陰に学ぶ」とはこういうことだと思っている。
即ち、「人間学」という普遍性を持つもので、時代を超えたテーマといってよい。



これに関連して松陰全集に『村塾零話』と題した門下生の語りが収載されている。
それによると、松陰は入塾希望者に対して、必ず「何のために学問するか?」と問うたという。そうして「書物を読めるようになりたい」との答えに対して、「学者になってはいかぬ、人は実行が第一である」と諭したという。この挿話に松陰の学問観や人間観を窺うことができるのである。「人間なるがゆえに、学問をして人の倫を知るべき」という考え方を汲み取らなければならないと思う。
士規七則24.3.25


この松下村塾記が書かれる前年、従兄弟の加冠に贈った『士規七則』でも、人間のあり方として大切なことが説かれている。「志を立てて以て万事の源と為す」ということばである。極論すれば、人間のみが「志」を持って生きることが出来るし、また、それなくして人間ではないとも考えられるのである。「人たる所以は志いかんにかかっている」と言い切ってよいと思う。学問をするということは、人としての行動または実践でもある。だからその根本に「志」が要求されるわけである。目標を意図的に設定出来るのは、人間だけであり、無目的な人生を生きることが、如何に人間らしくないかともいえるのである。
おそらく松陰が今日の日本の教育制度なり、教育の在り方を見聞したら、大いに叱ることであろう。最近まで(今でも)学歴主義が、まかり通っていた。優秀な成績をとって、優良な高等教育を受け、実社会での出世が目標だなどという価値観や人間観は一笑に付されてしまうだろう。「それは、学問ではない!」という松陰の返答が容易に想像される。
松下村塾記24.4.20


私の『吉田松陰論』という講座の試験問題は、毎年同じ問題を出している。「吉田松陰の著述した『士規七則』と『松下村塾記』を参照し、「志を立てて以て万事の源と為す」と「学は人たる所以を学ぶなり」のキーワードを使って松陰の人間観、学問観について論述せよ」との問いである。もちろん、資料は持ち込み可としている。以上のことに回答が出来れば、松陰を学んだといえると思っている。それが、実社会でどれだけ役立つかは、必ず身に染みて理解出来る時が来るし、人としての道しるべ、となると確信している。それゆえ迷わずにこの問題を出す。そして、松陰に因む特殊な語句、例えば「過所手形」、「野山獄」、「留魂録」、「下田踏海」、「戊午の密勅」、「松下村塾」などを簡単に説明させるのである。
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