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「東北・関東大震災」と「寛政の改革」
【2011/03/20 19:08】 エッセイ
この度の「東北関東大震災」の惨状は、自然災害としては、戦後の最大の災害であることは勿論、日本の歴史上にも刻印される程の規模での災害である。本当に被災した方々には気の毒としか言いようがない。復興への団結と国民的規模での努力で、一日も早く生活の復旧がなされることを祈るばかりである。

今回、初めて知ったのは「津波」と「波」の根本的な違いと、その恐ろしさであった。地震の規模の大きさも記録的ではあったが、見逃してならないのは「津波」がほとんどの死者および災害を引き起こす原因だったということである。大地震はそれ自体「恐怖」であることは論を待たないが、それが引き起こす「大津波」は「更にそれを超えて、想像を絶する恐ろしいもの」と改めて認識した人々が多かったに違いない。「世界一の堤防」もなす術がなかった。人命のみならず、街そのものまで破壊してしまった。原子力発電も、完全に安全神話が崩れた。「想定外」は言い訳にならない。今後を見守りたい。
天明の飢饉




 さて、江戸時代の中後期に天明年間という災害が多発した暗いイメージの時代があった。連年の大凶作で、餓死者は記録的であった。いわゆる「天明の大飢饉」である。これは天災と人災の混成形態のものである。農作物の生産者である、百姓が餓死して、武士にそれがないのは、まさしく政治が悪いのである。その意味では人災の面も併せ持つ。それは、民衆の激しい一揆や打ち毀しの激発を誘発したことを見ても、まさに人災と言ってよい。これで前世の田沼政治(田沼意次は、実は田安家出身である定信の将軍継嗣を妨げるため、奥州白河藩主に転出させた)は終焉となり、復興を視野に入れた人災の克服策としての「寛政の改革」が幕政レベルで実行されることになる。

大洪水や浅間山の大噴火による、農作物への災害と多数の死者は、今回の災害と関連して考える時、自然災害の恐ろしさばかりでなく、人災にも心しなければなるまい。そこで「老中・松平定信の登場」となる。したがって、これは災害が招いた結果の事である。定信の老中就任を推薦したのは、家斉の父である御三卿の一橋治済で、御三家一同と現将軍の父が賛同するという、通常の老中就任コースと違う、特殊事情をもってのことであった。田沼政治の克服には普通の老中でなく「人物、力量、血統」の三拍子揃った大物が必要で、定信は既に自分の藩地での改革実績が評価され、名君の誉れが出た上での登場であった。

外圧が忍び寄り、内政は破綻に近い「内憂外患」状態の再建・克服策の使命を背負って定信は奮闘する。綱紀粛正や文武奨励から、旗本・御家人の借金地獄救済の「棄捐令」に始まり、今日でいう「社会政策」的な施策を行う。飢饉に備えた備蓄政策(社倉の法)、上米制の復活と大名の江戸滞在期間短縮、囲籾令(凶作対策)、貯穀令(米の備蓄)、幕領農村に郷蔵を設置させるなど、就任目的を果たすべく政令が出された。変わったところでは「飢饉の時に米を買占めるのを、不正行為としてこれを行ったものの財産没収」の処罰をしたことである。
今回の災害で、食糧や必需品の買占めが横行しているが、こういった処罰は現代にもそのまま通じる。小売店の保存食系統の品々は、ことごとく買占めが先行し、仕入れ(供給)が間に合わないのである。

寛政の改革は、先行した享保の改革の精神で、幕府権威の維持策と困窮者救済を実現しようとし、一連の社会政策的な手が打たれた。しかし、全体的には貧民救済の対応策的な社会困窮脱出策のものが多く、必ずしも成功しなかった。それは将軍補佐として老中になったものの、その在任期間が短かったことにもあらわれている。
また謹直すぎた評価として、太田南畝に「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶぶんというて寝てもいられず」とか、「白河の清き流れに住みかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄する歌が残されている。しかし、総合的な評価として、名君であることをなんら妨げるものではない。具体的に年号表示をしておくと、松平定信が老中・将軍補佐に就任したのが天明7年(1787)、そして辞任が寛政5年(1793)の期間である。

定信のこのほかの主だった事績としては、天明8年に将軍家斉に提出した「将軍家御心得十五ヶ条」による「大政委任論」の表明、「京都御所の造営」による朝廷への寄与、朱子学を官学とする「寛政異学の禁」の発令等々があげられるが、外交、国防策も新たな喫緊の課題となっており、総じていえば多難な難題を抱えながらの改革指揮であった。したがって、政治史的には幕末に顕在化する諸問題の源流がここにあったことも見逃してはならないということも幕末史の研究では大切なことである。

なお、「楽翁」と号して幕政の表舞台から去っても、幾多の著述や「家訓的な自伝」を残している。岩波文庫に「宇下人言(うげのひとこと)・修業録」という手ごろな書物が刊行されている。これは解題が子孫によって書かれているので異彩を放っている。今回は、先日の災害を念頭に置いて、幕末史との関連から記事を思い立ったものである。
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今、世の中ではテレビで同じCMばかり流れています。アナウンサーはどこの局も「目立たないよう」黒いスーツを着ています。
通勤電車に乗っても車内広告がほとんどないのは不気味です。
こんな風に日々の経済活動を「喪に服す」と止めてしまうと、地震のために本当に日本は沈没してします。だから、元気な人は、それぞれの立場で、通常通り働くべきです。働いて金を稼いて、遊んで、飲みに行って、お金を落として、税金を納めて、どんどんこの経済を回復させるべきなのです。
現状では西日本の経済はほとんど平常どおりなのだから、東日本がダメなら、その分まで西日本に頑張ってもらうしかないのです。今、世界的に日本製品の不足が生じています。それで海外の大企業が製造中止に追い込まれたりしています。この状態が半年とか1年も続くようなら、かつて、朝鮮戦争で日本がボロ儲けしたように韓国製などにとって替わられるかもしれないのです。そうなったら困るのは日本全体なんですよ。
「ナイターは節電のため自粛」なんて言っていたら、被災地でも何の楽しみもなくなってしまいます。西日本でドンドンやるべきと私は思います。
我々はそろそろ、となりの顔色を伺って行動するような意識を変えるべきですね。
【2011/03/23 10:16】 URL | アタマが柔らか過ぎる者より #- [編集]

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