長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

改革の努力
【2010/06/22 17:37】 エッセイ
ちょっと風変わりな話 ( 長谷川勤「松陰随想集」から )
幕府と藩の改革努力の、ある種の共通性です。
人脈(血筋)と改革の主導者のことです。
定信と田沼24.4.22


江戸時代は2世紀半という長い平和が続いた。そして大半の人が幕府レベルにおける財政再建策としての政治経済改革を知っている。「享保の改革」、「寛政の改革」、「天保の改革」がそれである。ここに面白い人脈上の繋がりがある。享保の改革を断行した8代将軍の徳川吉宗は老中で専門職ともいうべき「勝手掛老中」の制度を復活(享保7年)させ、幕府の農財政を専管させたのである。この任に当たったのが水野忠之である。この水野氏は徳川家康の母である「お大」(水野忠政の娘で松平広忠の嫁す)を先祖の縁戚にもつ名門譜代大名である。水野氏はこのような血筋からか、江戸時代に多くの老中を出している。その中の「忠元流水野氏」の第5代が忠之で、その子孫が天保の改革の指導者、11代の忠邦である。一方、吉宗の孫が寛政の改革を率いた松平定信です。
田安家出身の定信は将軍職を継承出来る家柄であるが、実は将軍になりそこなったのです。妨害をしたのが有名な田沼意次で、二人の間には確執があったという。そして、田沼の計略で奥州白河藩主にされてしまったのです。田沼政治の後を継いだのが定信。
吉宗~田沼~定信~家斉の流れを見ると、「善政」と「悪政」がなぜか交互に続いている。これを善政悪政交替史観という。この頃、上杉鷹山(米沢藩)や細川重賢(熊本藩)のような名君が中興の祖ともいうべき藩政改革の努力を行った。後期には天保の改革で村田清風(毛利藩)や調所広郷(薩摩藩)が財政再建を果たし、西南雄藩として幕末の政局で活躍する素地を作った。藩主から能吏へと改革主導者が変わっているのも面白い。
幕府、藩ともに2世紀半の政権維持は並大抵のものでなく、貧乏の克服努力であったことがわかる。 それでも米沢藩の儒者「藁科松柏」はこれを根底から見抜いて「そろりそろりと天下のゆるゝ兆にや御座候」と書いて、時代の危機を読んでいた。時に江戸時代中期のことである。総じて、江戸期の幕府レベルの改革は、吉宗の「享保の改革」がモデルとなっている。それぞれの改革は、時代も、環境も、その他の諸条件が異なるが、享保の改革の精神に戻れ!という、後の改革指導者の理念なり政策が吉宗の精神をモデルとしたものであったことは、興味深いことであった。その吉宗は、紀伊藩主の四男で、後継者順位は低かったが、兄の死や、尾張の有力候補者がいなかったという、幸運もあった。開祖家康に血統的に最も近い人物として、将軍になったが、再三固辞したうえでの就任であったという。紀伊藩から、多くの人材をつれて将軍職を務めた。田沼意次の父もその一人であった。
関連記事
スポンサーサイト
この記事に対するコメント
コメントの書き込みが遅くなりました。スミマセン。激励有難うございます。日銀の吉野俊彦さんとイメージが重なるという誠に勿体無いお言葉、感謝の言葉もありません。偶然の事情から「吉田松陰」の勉強をせざるを得ないことから始まりました。少し、ビックリされるかも知れませんが、「秘話」を申上げます。私に「吉田松陰論」の担当依頼がありましたのは、実は高校時代の恩師からの電話でした。しかも、現役の会社員でしたので、職場にかかってまいりました。電話の応対が出来ませんでしたので、あわてて折り返しの返信を約束して、職場を飛び出して社屋外から返信しました。適任者が居ないことを聞いて、恩返しのつもりで引受けることになりました。それからは、平凡なる日常が「松陰漬け」の異常ともいえる取組が始まりました。仕事中、睡眠中、入浴中を除けば松陰関連の書物がいつも左手から離れません。食事も本を読みながらです。電車に乗車中は夢中になりすぎて目的の駅を乗り越すこと度々でした。お陰で会社を遅刻しそうになったことが度々ありました。信号待ちをしていても読書で、赤信号なのに隣の方が歩き出したので確かめずに歩き出したことも何度かありました。教壇に立つ資格と内容があるのか?自問自答の繰り返しでした。恩返しの積りで引受けた以上、中途のギブアップが出来ません。退路が絶たれた勉強が続きました。「石の上にも三年」で、辛うじて職務を果たしていたのが実情でした。元来が田舎から出て来て、どちらかというと引っ込み思案だったのに何故か引受けてしまいました。そこからは蟻地獄のような精神状態。断ればよかったかな?と自省の反芻。せめてもの救いは松陰が異常な勉強家でしたから、これにあやかることだ!と言い聞かせての数年間でした。全集の重要と思われる文献(長文は除いて)をワードに打ち込んでルビを施す原始的な方法からの勉強でした。これが実に大変な作業でした。最初のハードルは何とか持ちこたえましたが、これからが本番です。体力、気力、向上心が三位一体でないと望んだ成果が得られないと思います。
昔は「よく学び、よく遊べ」でした。懐かしい言葉です。今後も、努力を続けますので、応援宜しく御願い致します。
【2010/07/07 22:14】 URL | 長谷川勤 #- [編集]
私も日銀の吉田俊彦さんの森鴎外研究を読んで、当時感心していた一人です。
長谷川さんの研究はこれからますます広がり、深まって行くと思います。
吉田松陰の心を日本はもとより、全世界に広めて行ってもらいたいものです。
そして、世界中から松陰さん、松陰さんの声が上がって来る事を祈りたいですね。
今後、日本文明が世界を救う潮流になると予感しています。その時、日本文明の核として縄文時代の文化や吉田松陰の思想等が研究・学びの中心になることが予想されます。
もしそのような時代が来ることがあれば、長谷川さんは世界中から求められることでしょう。
【2010/06/27 20:14】 URL | 上野 光一 #- [編集]
吉田松陰に関すること、よくぞここまで調べあげられましたね。
本当に感心しました。
まるで森鴎外研究家の日銀の吉野 俊彦さんのようです。彼は経済学、金融史が専門だったと思います。
どうも長谷川さんと吉野さんのイメージが重なります。
こういった研究は多分お金にはならないことだと思いますが、どうぞこれからも頑張って研究を続けてください。長谷川さんはまだ若いですからきっと将来陽の目を見るようになると確信しています。
     
【2010/06/23 21:53】 URL | 東北の松陰信奉者 #- [編集]

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/9-7817a6be
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR