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「二十一回猛士の説」
【2011/04/09 13:50】 エッセイ
二十一回孟子24.3.25
この「二十一回猛士の説」は幽囚録付録に収載(松陰全集第二巻:87頁)されている。
松陰が好んで使用した号である。
これは、安政元年(1854)十一月前後(この時、松陰は野山獄に収監中)に書かれた。
短文なので、まず原文を記す。
二十一回孟子墓
南千住の小塚原回向院


吾れ庚寅の年を以て杉家に生まれ、已に長じて吉田家を継ぐ。甲寅の年罪ありて獄に下る。夢に神人あり、与ふるに一刺を以てす。文に曰く、二十一回猛士と。忽ち覚む。因って思ふに、杉の字二十一の象あり、吉田の字もまた二十一回の象あり。吾が名は寅、寅は虎に属す。虎の徳は猛なり。吾れ卑微にして孱弱(せんじゃく)、虎の猛を以て師と為すに非ずんんば、安んぞ士たることを得ん。吾れ生来事に臨みて猛を為せしこと、凡そ三たびなり。而るにあるいは罪を得、或いは謗りを取り、今は則ち獄に下りて復た為すこと能はず。而して猛の未だ遂げざるもの尚十八回あり、しの責もまた重し。神人蓋し其の日に益々孱弱、日に益々卑微(ひび)、終に其の遂ぐるの能はざらんことを懼る。故に天意を以て之れを啓きしのみ。然らば則ち吾れの志を蓄へ気を併する、豈に已むことを得んや。 
<特殊な文なので、脚注を少し施しておく>
 庚寅:天保元年(1830) 甲寅の年罪あり:安政元年(1854)の下田密航
 一刺:一枚の名刺
 杉の字二十一の象:杉は分解すると、木へんは十と八、つくりは三で合計二十一となる。
 吉田も分解すると、吉は十一と口、田は十と口、口を重ね合わせると回となる。
 寅:寅次郎(松陰の名) 卑微にして孱弱(せんじゃく):身分は低く体は弱い
 三たび:①東北脱藩旅行 ②藩士でないのに上書(藩主への意見具申:具申資格無し)
     ③下田密航    以上の三つの掟(きまり、法)を犯したことをいう。

松陰も号であるが、松陰はこの「二十一回猛士」の号も好んで使った。これは、その由来を書いたものである。自分の生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするというわけである。
すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行、無資格で藩主に上書、下田密航)を犯したが、まだ十八回も残っている。今後、大八洲(日本)のために、身を挺して尽くす勇気ある行動=(松陰が自称)を起そうという決意の表明である。
憂国の志士と言われる一端が垣間見えるようで、大変面白い。

結局はこの三度の「猛」を発した行動で生涯を終えるのであるが、こうした心意気をこめた行動を、藩も幕府もこの国難(夷敵からの植民地化の可能性)に存亡をかけて立ち向かう気力もない。したがって、松陰の晩年に「藩も幕府もいらぬ、ただこの六尺の微躯が入用」(安政6年、野村和作宛て書簡)という結論に達した時に、幕府から呼び出され、「安政の大獄」の最後の犠牲者として処刑されてしまう。

しかし、「松陰精神」は門下生等に継承されて、長州藩は幕末政局に縦横無尽の活躍となり、明治維新の大変革の立役者となる。吉田松陰が「維新の先覚」と呼称される所以である。松陰の門下生から逸材が沢山出たが、ここにも淵源を求めることができるというわけである。松下村塾が、百姓屋敷の「物置小屋」を改造した、粗末で小規模な「私塾」でありながら後世に名を残すことになったのは、松陰のこうした「国を思う心」と実践を門下生に指導した結果である。
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