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「教学」について
【2011/04/09 15:45】 エッセイ
掲題の「教学」とは、広辞苑によれば ①教えることと学ぶこと。②教育と学問。③道徳的な教えの意を学問にもたせて云う語。と説明されている。
私たちは「吉田松陰」という一人の歴史上の人物を学ぶことを通して、人間とは何か? 学問とは何か? を学ぶことが出来る。そこに人物研究の意味があるように思う。人を知り、時代を知り、日本及び日本人を知ることが出来るとおもう。
偶々、勉強の過程で下記の書物に出会った。非常に参考になる内容が書かれているので、一読のために供したい。
これは、「石門心学」で知られ、江戸中期の「町人の学」とも「庶民の学」ともいえる、石田梅岩とその後継者の手島堵庵の代表的な文献と解説を加えた本の「解説」部分を入力したものである。
無題 手島堵庵
 


日本教育寶典④「石田梅岩」「手島堵庵」集 佐藤清太・縄田二郎校註
玉川大学刊昭和41年4月30日初版
解説
1、序説
教育思想家としての石田梅岩・手島堵庵を理解するにあたって、まず心得ておかなければならないことは、その思想・学問を、単に近代の科学・哲学の枠でみれば、その真相を逸するということである。
古来、東洋の学においては、実学を重んじ、客観的な知識の体系すなわち理論を立てることを主にしない。実学とは、宗教・道徳・政治・経済等を一体のものとして、われわれの人生問題・社会問題を、現実の立場から考え、かつ実行することを主眼とするものである。したがって、この学問は、近代の科学・哲学とは異なって、真理のために真理を求めるのではなく、あくまでも歴史的現実における正善の体得・実行を根本とする。すなわち科学・哲学は、広く言いえば真理を対象として研究するのに対し、教学は、聖賢・祖師・先哲・師匠の教えを正善と信じこれを実行することを主眼とする。教学とは、教と学とが表裏一体のもで、儒教と儒学、仏教と仏学とはそれぞれ一つのものである。学ぶのは、ある人格を尊信し、その教えをまねるのであり、先人の説を批判して、みずから個人的に学説を立てることを目的としない。故に、学ぶものは、まず教えを信奉するところから出発する。かくてこの信の心は、真理をさとり、真理のままに生活した人格として、聖人・覚者を崇敬するところに始まり、やがて現実の自他の実践の中に確証されるに至って、独自の個性をもった新しい教学が立てられることになる。

人間と生まれ、人間として真実に生きて行く道は、人間の本性を自覚し、その自覚のままに生活するところにある。単なる動物として生きるのは、人間性を自覚したものとはいえない。人間の本性とは何か。これを自覚し、実践して、人が人となる道に達するには、単に自然的・個人的な成長発達にまつことはできない。実に教育の作用によらなければならない。教育のはたらきは人類の歴史とともにあり、その教育は、個人及び社会のもろもろの影響感化としてはたらくが、はじめは伝統的習俗の中に行われる。その習俗生活の中にあって聖人・覚者は、深く人間の本性をさとって教えを立てる。教えは、社会生活に根ざしたものであり、すべて人が人となる道を具体的に説き示したものである。この教えを根本のよりどころとして、人間性の実現をはかるものが教学である。されば、ここに石門心学と呼ばれるものは、東洋の諸教をよりどころとし、江戸時代の社会生活を背景とし、日本の歴史の中に、石田梅岩によって始められた独自の教学である。

真実の学は、すべて、時代により、個人によって、面目を新たにしてくるのであるが、科学が、まずみずからの眼をもって普遍的真理を見ようとするのに対し、教学は、先覚者の教訓の中に真理ありと信じて、具体的にそのまま実行することを眼目とする。学であるかぎり、いずれも普遍性をもったものであることは当然である。さりながら、教学の普遍性は、その学を立てた人の生活を離れては理解することができない。理論の普遍性は、現実の人間生活を離れて、抽象的に、概念的に理解できるが、教学、はつねに具体的・特殊的で、たんに理論だけを切り離せば、その学の生命は失われる。

このように、教学においては、学問と教育と人格と生活とは一体のものであり、その学問は、宗教・徳教・政教であり、宗教・道徳・政治・経済とは分化しないで行くことをたてまえとしている。これを西洋流の学問・思想の立場からみれば、未開ともせられ、理論の統一がないともいわれるが、その教えの内面に深く沈潜してみれば、その中に体験の深さがあるとともに個人の安心立命はもちろんのこと、社会の道徳・政治とも深くつながっていることがわかるであろう。

科学が、客観的な法則を立て、その知識・体系を財産のように蓄積し、あるいは現実に適用して文化を発展させ、その結果、人間生活を豊富にし、便利にし、これを以て人生の向上と称することは妨げないが、しかし、これらは所詮、生活の手段である。教学は、その文化の恵みを万人に与え、社会における正善の実現をめざす目的そのものである。すなわち教学は、人間生活を離れた特殊領域の文化でなく、現実の正しい生活そのものをめざしている。
江戸時代の学問は、儒教が主流であったが、仏教も広く信奉され、神道の伝統も生きていた。石田梅岩・手島堵庵は、この中にあって、独自の学を立てたのであるが、その趣旨は、あくまで上述の如きものであった。二人とも、人格者であり、哲学者であり、教育者であったが、これは三方面の人というべきでなく、正にこれを一体とした偉大な学者である。今われわれが、その学問の中の教育思想を理解しようとするとき、一応これを近代学術の方法を用いて、分析的に理論的にみることも必要であるが、そこにとどまるかぎり、その真意を窺うことはできないということを銘記すべきである。
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