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吉田松陰全集について①
【2011/04/11 16:09】 エッセイ
吉田松陰全集は昭和九年刊行のもの(通称・定本版)全十巻。
そして昭和十五年刊行のもの(通称・普及版)全十二巻が戦前に岩波書店から出版されている。
更に、昭和四十七年にも刊行されている。これを通称・大衆版と呼称している。全十巻と別巻一巻で計十一巻になる。これは大和書房から出版されている。

何故、吉田松陰全集が、時を変えて、少し形式を変えて三たび刊行されたのか。

これを知るために、おのおのの「刊行された目的」あるいは「意味又は意義」が解かるよう、「刊行の辞」をそのまま書き込んだ。これらを読むことによって、松陰と時代性の関連、研究する意義が見えてくると思う。
大変に長文になるが、心を期して全文読む努力を願いたい。読者ばかりでなく、私自身も大変な労力であるが、非常に価値があると思う。
では順次、書き込んで行きます。
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(1)、定本版(岩波書店

「刊行の辞」
吉田松陰先生は安政六年十月二十七日、齢僅に三十歳を以て江戸の獄中で刑死せられたが、その辞世に
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂
とある。若し徒に大言壮語する者が、この歌を遺したとするならば、後世の者は必ずやその誇大妄想を嗤ふであらう。然るに今日於てこの歌を讀む者、誰か粛然として襟を正さぬ者があらう。これ實に先生の英霊に権化せる日本精神が萬古不朽であるからである。

先生は幼にして山鹿流兵學の家に嗣となり、少小夙く既に極東に於ける祖國を知り、憂國の情切なるの餘り私かに外遊を企てゝ成らず、獄囚となつては専ら書を讀み、道を求めて、終に國體を知り、皇道の根本義に徹した。獄に在っては獄政を論じ、邑にあっては邑學を議し常に躬を以て天下に率先し、到る處に光彩を放つた。殊に幽室及び松下村塾に於ける二年餘の教育は能く維新前後に活躍せる子弟を育て、躬、安政の大獄に坐して一死嚴かに後進の奮起を促した。その生涯を貫く奉公の至誠、その真摯なる求道、その熱烈、その勇猛、多難なる時局と共にあゆみながらより根本的に維新回天の精神的運動に終始した三十年、それは一面に於て國民的自覚の歴程であると共に、他面に於て國民教化の源泉を穿つ難工事の完成でもあった。先生は三十歳の青年である、敢てこの人に絶對の完全を求むべきではない。而も不断に成りつゝある者のみがもつ生命の眞實、従ってその迫力があり、三十歳には三十歳の充実と完成とがある。さうしてこの中に新日本建設の礎石は既に不抜に配置せられている。
定本吉田松陰全集


今や我が國は眞に容易ならざる時局に立ってゐる。この時に當り天下の士は明治維新の大業を回顧し、幕末の志士を想起しつゝあるやうであるが、其處から果して何を求めんとするのであるか、而してそれは既に與へられてゐるのであるか。少なくとも松陰先生に関する限り、未だ一般には求むべきを求め得たとはいひ難い。粗放傲岸、矯激なる策士としてこの人をみる者はないかも知れぬが、而もなお志士一般以上に、或る永劫の相に於てこの眞人を仰ぐことには達してゐない。抑々何によつて松陰先生の面目を知り得るのであるか。あの急激な時代の動きに即して最も忠實な思索をした人の場合、一隅を擧げて三隅を推すことは早計であり危険でもある。本會が既に早く先生の全集出版計畫を樹て、其の思想及び行實の再吟味に十分なる資料を提供したいと考へた所以は實じ茲に在る。勿論かゝる時局に際會することを豫期しての計畫ではなかったが、この事業は寔にその時を得て世に公にせらるゝべきものといふべきである。

先生の著述期間は僅々十年に過ぎぬが、その記述の多きこと幕末志士中の第一位にあるといふも過言ではあるまい。従来刊行せられたものはその一部分にとゞまり、且つこれ等もすべて絶版となつて居て容易に得られぬ。本會は何とかして完全なる全集を編纂して後世に遺したいと考へて居たが、幸に安藤、廣瀬、玖村の三先生が夫々先生の著述に就いて多年研究せられ、資料の蒐集のも着手して居られることを知り、その協力による集大成を懇望したのである。幸にも三先生はこれを快諾せられ、この事業の完璧を期するため特に徳富、渡邊両先生の指導に俟って嚴密なる編集方針を立て、各分擔地方を受持ち、徹底的調査に没頭せられた。

かくて萩松陰神社、東京吉田家、その他関係諸家をはじめ、普く天下に散在する秘庫を開くことまさに三百、前後三歳にして約六千頁の原稿の完成することを得たのである。こゝに全集の名に相應しき内容の充實を得てこれを公刊する運びとなったところ、岩波書店主の熱意と義侠とがあり、出版の責務一切を同店に於て擔當することゝなつた。これ本會の衷心感謝してやまざるところである。敢て全集出版の趣意及びその経過の概略を記して茲に識者の清鑒を仰ぐ次第である。

昭和九年九月

山口縣教育會長  吉川安平

編纂總則幷總凡例

人生は倐忽である。毀誉栄枯は一瞬の夢である。人は唯この中に在って一箇不朽の事業を成せば足るとは松陰の語である。眞にその三十年の短い生涯に於て成された事業は不朽であった。その遺文遺著はこの不朽の事業を記録したものであると共に、又それ自身直ちに一箇不朽の事業である。されば、松陰自身も、その遺族子孫門人知友も、この遺文遺著を整理保存し、或は出版して、不朽に伝えようと努力して来た。それは歴史的に年代が新しいといふ関係もあるが、又それ自身のもつ價値の為に、それを知れるものゝ努力の故に、比類少なきまで豊富によく保存せられて居るのである。

いまこゝに山口縣教育會がこの豊富なる文献を蒐集整理して、完全なる全集を出版せんとする計畫を樹てたことも、固より先輩の努力を継承するに外ならぬ。不肖等自ら揣らず、この事業を委嘱せられたことに就いては内心忸怩たるものあるにも拘らず、又光栄の至りであると感ずるものである。

顧みるに、松陰の遺文遺著の公刊事業は、幕末から明治初年にかけて、家兄杉民治及び門下生により松下村塾蔵版として企てられ、明治十四五年頃から品川彌二郎、野村靖の両門人によって尊攘堂版・文求堂として刊行された。又明治四十一年頃後嗣吉田庫三によって松陰先生遺著、同二篇として出版せられた。なほその他にも単行本があり、これ等により略々主著と思はるべきものは大概公にせられたのである。併し、これ等は多く単行本であり、松陰先生遺著二巻も既刊のもの幾つかは省いてあり、全集とはいへなかった。もとより誤植などは比較的少いけれども、或は抜粋に止り、或は文字の形を変更し、行間欄外書を省略し、或は部分的改作さへ加へられた所があって、なほ遺憾の點が多かった。而も貴重なもので未だ印刷に附せられて居ないものがあり、既刊のものも大抵絶版となって居て容易に手に入らない。

そこで今囘の全集には、これ等の點に於て、従来の闕を補ひ萬全を期して遺文遺著をなるべくげんけいのまゝに再現し、而も全部を網羅するを理想として着手せられなくてはならない。併しながら嚴密に全集といふ言葉は有限なる人力を以てしたのでは到底用ひられる筈がない。書名が解つて居て原稿の存せぬもの、又書名も解らず、今日傅つても居ないものもあるかも知れぬし、断間零墨にして調査漏れもないとは保證し難い。なほ抄録類の如きは厖大に過ぎるため、別に述べるやうな趣旨で一部分は省略せざるを得なかった。けれども、及ぶ限りの努力を以て全集の名を辱しめぬよう編纂をしたつもりである。こゝに原本の決定、資料の蒐集、分類配列、印刷等に就いての總則と總凡例とを記して置かう。
編集委員:安藤紀一
廣瀬 豊
玖村敏雄

以上が定本版吉田松陰全集の刊行の辞、及び編纂の考え方を、そのまま入力したのであるが、如何に完璧を期して臨んだかが解かる。まして、岩波書店はこの全集の永遠なる保存性を求めての「天金装丁」という立派な菊版サイズの申し分ない全集を刊行したのであった。編集委員の情熱と山口県教育会の熱意の結晶であり、存在価値は高い。
抑々、「山口県教育会」の企画の始動は昭和六年九月五日であると、第十巻・巻末に「編集経過大要」で記されている。三か年の歳月を費やして編纂して、刊行に漕ぎつけたのである。部分しか見えなかった「吉田松陰」の全貌が解明された意義は、誠に大きいといわねばなるまい。


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