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【吉田松陰と知行合一】
【2017/12/29 15:03】 エッセイ
吉田松陰の教育と「知行合一」の教え

吉田松陰の松下村塾における教育では、学問の目的を明確にして、ともに学ぶ姿勢を説明しながら「学者になってはいかぬ、人は実行が大切である」として、学んだことの成果が人生の実際に生かされなければ意味がないという実学を教えました。従って、学問の為の学問は否定する考え方でありました。江戸に修業に行った時に、「江戸の学者は知識を切り売りしている」という事に、大きな不満を持ったことがありました。そして世の中の動静に対して全く無関心である学者の姿に、失望を覚えたのでした。「知行合一」の教えに賛同した翌年の事ですから、なおさらに残念な思いを抱いたことと思われます。
170331正装の吉田松陰150821松下村塾松陰の立志実践教育知行合一


さて「知行合一」を掲げる陽明学を提唱したのは、中国の「明」の時代の思想家であり、高級官吏でもあった「王陽明」という人です。これは「伝習録」として門下生との問答録の記録として日本でも出版されています。江戸時代は「朱子学」が官学として幕府の勧めるところでありましたので、陽明学は一部の知識層にしか普及しませんでした。松陰が陽明学に出会ったのは嘉永三年(一八五〇)、平戸藩の家老であった葉山佐内という人物の下で修業旅行をした時でした。この時松陰は二四歳でしたが、筆まめな松陰はこの半年間の修業期間のことを記録した『西遊日記』に克明に書き残しています。
平戸に到着したその晩に早速葉山佐内から伝習録を借り、熱心に読んだことが記されています。少し話が脱線しますが、この陽明学というのは、幕末になって多くの志士といわれる人に影響を与えました。有名なところでは吉田松陰の他に、大塩平八郎、西郷隆盛、久坂玄瑞、高杉晋作、山田方谷、河井継之助などが熱心な信奉者として知られています。昭和に入ってからは作家の三島由紀夫が「革命哲学としての陽明学」をいう本を書きました。三島由紀夫もまた陽明学の信奉者の一人といえるでしょう。昭和45年11月25日の市谷での割腹自殺は、まさしく陽明学の影響と考えられます。陽明学は学んだことを信じて「行動の実践」に結びつけるというところに特長があります。すこし難しい表現ですが「主観の完全燃焼」と言い換えることが出来ます。
自分の信念をゆるがせにしない生き方に繋がるわけです。ですから時にその行動は死をも恐れないという一面があります。幕末の動乱期はこのような「命懸け」の行動の連続でもありました。松陰が国禁を犯してまで密航を企てた背景には陽明学的な考え方があったといえるでしょう。このような経緯があって松陰は塾生に「知行合一」という考えを日々の学習の中で自然な形で教えて行ったのです。松陰の人材育成のありかたは決して難しく考える必要はなく、普段の何気ない日常の生活の中で、いつも「言行一致」の行動をとることでありましたから、無言の説得力となって塾生の先生に対する信頼を拡大して行きました。そうした中で塾生の人間的成長を願ったのでありました。

塾生の成長度合いや能力を見極めながら判断して教材を適宜に選んで読ませ、一人一人に課題を授けて、自分で考えて解決するという能力開発を願っていたのです。そうして読書が終了すると、感想や自分の立場から批評させて、一緒になって議論し合うというものでした。このように松陰の教育は、教えるという姿勢よりも一緒になって学び合い、その議論の中から塾生に学び取らせるという自主性を重んじるものでした。私達は「陽明学」というと、いかにも難しい学問のような印象を持つかもしれませんが、必ずしもそうではなく、「知識と行動」の一体的な調和を説いているものであることを理解出来ればそれで良いと思います。

学んで得た成果とその行動が、自分をより人間的な成長を促す建設的なものであれば、それは他者への貢献となって信頼されることになります。因みに筆者の勤務する大学は「知行合一」を校是・建学の精神に掲げていまして「吉田松陰論」という珍しい履修科目が設置されております。看護学部もありましてこの学部では「必修科目」の扱いで吉田松陰論の単位を取得しませんと卒業できないようになっています。松陰は「学問の大禁忌は作輟(さくてつ)なり」といって、学問をやったりやらなかったりする態度を厳しく戒めました。それだけに学生の皆さんは、必死でこの科目を勉強します。吉田松陰の勉強をすることは「汲めども尽きない」井戸のように、沢山の教えが「こんこんと」湧き出てくるのです。


2018年度大東文化大学・オープンカレッジ
【2017/12/03 10:02】 エッセイ
【2018年度の大東文化大学】オープンカレッジ

171203大東文化会館1171203大東文化会館2



2017年11月29日、来年度のオープンカレッジの講師担当依頼が届く。演題と内容を思案した挙句【江戸時代の名君研究】として、「伊達政宗」「池田光政」「徳川吉宗」「上杉鷹山」「島津斉彬」を取り上げることにする。江戸期の幕藩体制の創成期に名君としての誉れが高い5人を取り上げて、時代とどのように格闘したかを検証したい。先ず、「名君の条件」を定義するとしても、一口に名君とはいえ、実はその生きた時代によって、名君の条件や内容、人物評価は異なる。260年余り続いた長い徳川時代は、その創成期と中期、幕末では「君主の在り方」が異なるだろう。
まず最初に取り上げるのは「奥羽の覇者・伊達政宗」としてみる。戦国時代末期に生を受け、群雄割拠の一方の旗頭として君臨していた「芦名氏」を「摺上原」の戦いで破り、芦名氏の拠点だった黒川城(会津若松)を奪い、そこを拠点とするも、豊臣秀吉の「小田原征伐」の参戦に遅刻し、「箱根底倉」に謹慎させられる怒りを買う。
この時の秀吉謁見を願い出た政宗の姿は髪は「かぶろ」で、短く切り揃えて垂れたものとし、甲冑の上に白麻の陣羽織を着た「死装束」で死を覚悟した、いでたちであったという。小田原参陣をめぐって、家臣の主戦論と参陣を主張する説に別れ、片倉景綱に従って、遅れての参陣となった。その結果、黒川城を没収され、ふたたび自分の生誕地であった米沢に戻る。
その黒川城に入ったのは蒲生氏郷であった。小田原征伐の終了で、残るは奥羽地方のみとなる。小田原参陣しなかった「葛西晴信」や「大崎義隆」は勢力も大きく、名族でもあったので彼らの所領は没収された。これを「奥羽仕置」という。しかしその後に入ってきたのが木村吉清、清久父子という「俄大名」で、それまでは五千石の大名であったが一躍、三十万石に抜擢された。そのため統治力不足は否めず「葛西・大崎一揆」が勃発し、佐沼城に閉じ込める事態が起きた。
これを鎮圧すべく、蒲生氏郷と伊達政宗は軍陣を整える準備を始めるも政宗の家臣須田伯耆が伊達政宗を裏切る。
即ち、「葛西・大崎一揆」を裏で扇動しているのは伊達政宗であると、書状を添えて蒲生氏郷に持参した。
やむなく蒲生は単独で(奥羽仕置責任者)木村父子を攻め落とし、そこ「名生城」に籠るが、最終的に政宗は秀吉からも嫌疑がかかり、詰問をうけるが「花押」のカラクリを説明して危機を切り抜ける。
そして旧葛西・大崎領十二郡を秀吉から与えられて、五十八万石を確保出来たのであった。
これが「岩出山城」である。実は、秀吉も徳川家康も、一揆の扇動者が政宗であったことを見抜いていたが、全国制覇達成に、政宗を利用しようとする度量の大きい政略だったのである。
やがて、秀吉が死去し、徳川の天下を迎えるが、政宗は長女の「五郎八姫」と家康の六男「忠輝」の婚約を成立させている。
これが秀吉死後の掟(申合せ)に違反していることから、石田光成や前田利家などから詰問されるが、いざござを切り抜けて関ヶ原の戦いに発展し、政宗は東軍につく。敵将の一人「上杉景勝」への備えを任務(上杉を会津にくぎ付け)とした政宗は、家康から勝利の暁には七か所を与えるとの「覚書」を貰った。この石高は四十九万石なので、旧領地の五十八万石と合算すると百七万石となり、「百万石大名」となる処だったが、政宗の失敗も絡んで二万石の加増にとどまり、「百万石のお墨付き」は実現せず「岩出山」城主に居を構え、近世大名として出発する。そして「千代」に移り青葉山を居城として「伊達六十二万石」の外様三大大名の一人として、幕末まで続く。これが現在の「仙台市」となって伊達の城下町として現在もなお発展して、東北最大の都市となる。


【戊午の密勅】
【2017/11/05 14:34】 エッセイ
【戊午の密勅】

安政戊午五年(1858)八月、孝明天皇は幕府が朝廷(天皇)に無断で「米国総領事・ハリス」と調印をしたことに激しく怒った。幕府は同年六月九日、江戸湾上で「日米通商条約および貿易章程を締結」し、これを「宿継ぎ」という方法で朝廷に報告した。事後報告である。

これに対して孝明天皇は譲位を云い出すほどであった。それは、この年二月九日、幕府は老中・堀田正睦を勅許奏請の為に上京させて参内させた。然し、勅許は得られずに堀田は四月江戸に帰った。この時に朝廷は「条約調印は三家以下諸大名の意見を奏した後、再度の勅許を請うべし」と堀田に示した。この直後、大老・井伊直弼は反対派を押し切って勅許のないまま締結したといういきさつがあった。
こうしたことから、同年六月二十九日、事情説明の為、三家・大老のうち一人の上京を命じたが、幕府は老中間部詮勝を派遣すると返答したため、長幕関係は険悪となった。

160726橋本左内顏写真170331正装の吉田松陰


こうした折、水戸・越前・薩摩の有志らは幕政改革のための勅諚を水戸藩に下すよう近衛忠煕・三条実万らに入説したことから、「関白九条尚忠」の裁可手続きを経ないで「密勅」となって、八月八日に水戸藩に降下した。(原文には朝廷の最高責任者の関白・九条尚忠の名前はない)二日遅れて幕府宛にも勅諚は出されたが、大老井伊直弼は水戸藩に勅諚の返納を迫った。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、井伊暗殺の秘事が記されていたとされ、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。

以下、原文を記す。

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右様之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國内之治亂如何ト更ニ深被悩叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之様ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家慎中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同様御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪状ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被悩宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候様被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、内憂有之候而者、殊更深被悩宸襟候。彼是國家之大事ニ候間、大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之様、德川御家ヲ扶助有之内ヲ整、外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候。早々可致商議勅諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣、鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


これを読み下してみる。
先般墨夷との假条約は、余儀なき次第にて、神奈川に於て調印し使節へ渡され候儀、猶又委細は間部下総守が上京に及ばれ言上の趣に候えども、先達て勅答に諸大名と衆議を聞かされたく仰せ出で候所、詮議も之無く、誠に以て皇國重大の儀を調印の後に言上とは大樹公(幕府・将軍)が叡慮のお伺いの趣意も相立たず、尤も勅答の次第に相背き軽率のお取計いは大樹公賢明の所、有志の心得如何と御不審に思召され候。右のような次第にて、蠻夷狄の者、暫くさし置いて今国内の治乱は如何と更に深く叡慮(天皇)を悩まし候。何卒公武の実情を尽くされ、御合体を永久安全の様にと偏に思召され候。三家或は大老が上京を仰せ出され候所、水戸尾張両家は慎んでこの趣を聞き及び、且つ又其の餘宗室(将軍家)の向きにも同様の御沙汰の由も聞かれたく候。右の者は何等の罪状に候や、計り難く候えども、将軍を補佐の面々は、今こそ外夷はこれからの入港も容易ならぬ時節で既に人心の帰向にも相拘るべく、傍ら宸襟を悩ませ候。かねて三家以下諸大名の衆議を尽くされたく仰せ出され候所、全く永世の安全は公武御合体にて、叡慮を安んじられ候よう思召され候儀、外慮の計の儀にもこれ無く、内憂これ有り候ては、殊更深く宸襟(天史の心)を悩ませ候。かれこれ国家の大事候あいだ、大老や閣老其の他、三家三卿と家門や列藩の外様と譜代ともども、一同群議の評定これ有るべく誠忠の心を持って、篤と政道を正して、国内平和をいよいよ長く続かせて徳川家を援けるよう整えて外夷の侮りを受けぬよう思召られ候。早々と商議致すべく、この勅諚を下す。安政五戊午年八月八日
近衛左大臣 鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


 東京龍馬会 【第六二回総会&講演会】
【2017/10/07 00:35】 エッセイ
 【第六二回総会&講演会】

平成二十七年七月二十三日(日)、「東京龍馬会の総会」が開かれた。
この席上、私は「吉田松陰と松下村塾」の演題で八十分の講演を行った。
この記事は当日の模様を幹事を務めた方が「報告文の形で」纏めて呉れたものである。
個人情報も含まれているので、該当部分のみを修正して掲載します。

平成二十九年七月二十三日(日)新宿グリーンタワービルの東京ビジネスサービス会議室において、
第六十二回臨時総会&講演会を実施いたしました。
曇天模様の小雨交じりの中、八十名もの方が参加してくださり、会場は熱気に包まれました。
初めに開会の挨拶を修行代表幹事が行い、
今回は勝海舟の玄孫・高山みな子さんの密着取材で、BSジャパンの「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」、
の撮影が入るという説明と、会場の皆さんに撮影の同意を求めました。
臨時総会は佐藤会長の挨拶から始まり、昨年東京龍馬会が30周年を迎えたこと、
「龍馬をご縁に出会いを楽しむ」のもとボランティアで幹事会が年4回の龍馬タイムズ発行、
年2回の総会&講演会、2回の史跡探訪を行っている事などを説明し、
修行代表幹事が、事業報告、役員・来賓紹介、新幹事紹介を行いました。
また、山村竜也顧問が『龍馬ガイドブック』出版について、
「今までに龍馬の全国の史跡を一冊にまとめたガイド本はないに等しいので、
東京龍馬会で作る意義は大きく、それには皆さんのご協力が不可欠です!」と熱く語られました。
170723第62回東京龍馬会総会と「吉田松陰と松下村塾」の講演170331正装の吉田松陰170506舟で漕ぎだす松陰と金子 弁天島の絵


講演会は、長谷川勤先生(松蔭大学・吉田松陰教育研究センター客員教授)を講師に迎え、
『吉田松陰と松下村塾』についてお話しいただきました。
長谷川先生は、生まれて初めて夏風邪を引かれたそうで、
まだ声が嗄れている中、2時間近くにわたり熱弁をふるってくださいました。
歴史が大好きなサラリーマンだった先生が、松蔭大学にスカウトされたのは13年前。
とある会で歴史談義をしたら、講師の方より詳しくて、まだ会社勤務をしていた先生に、
「是非、土曜だけでも講師をしてくれないか?」、と懇願されたのだそうです。
坂本龍馬と吉田松陰の違いは、龍馬の資料は各地に散らばる手紙だけであり、
そのため坂本龍馬を100人が語ると100人が違う、
けれども、松陰は松陰全集が残されているためあまり変わらないという話は興味深かったです。
松陰全集は、昭和十一年版(全文漢文)、昭和十四、昭和四十八年の3回出版されているそうですが、
先生はそれを全部お持ちで主要論文をパソコン入力し、ルビをふり、
松陰がしたようにわかりやすい言葉にして学生に講義をしているといいます。
その成果か、受講者が1000人を超え大学からお祝いをされたとか…。
最初に松陰の伝記を書いたのは徳富蘇峰で、明治二十六年に出版されていますが、
日清・日露戦争を経た明治四十一年に、乃木希典や入江杉蔵に、
「松陰を革命児と呼ぶのはイメージがよくないので書き直せ!」と命じられ、
明治四十一年にやむなく改定本をだしたこと、
先生のご出身の村の人が、初代群馬県令・楫取素彦の妻・寿(松陰の妹)に、
松陰の守り刀を託されて渡米したことなど、長谷川先生ならではの貴重なお話をお聴きすることができました。
幕末から明治にかけて活躍した人材を育て、自身は海外に行くことがかなわなかった点、
松陰と龍馬は似ているかもしれませんね。
講演会は大盛況のうちに終わりましたが、先生は時間内に質問できなかった方々にも丁寧に説明されていました。
 懇親会は場所を移し「龍馬 はなの舞 西新宿店」で催されました。
長谷川先生や山村顧問、高山みな子さんにも参加していただき、
BSジャパンの撮影クルーも引き続き同行して賑やかな懇親会となりました。
今回、谷干城のご子孫・谷光弘さんが初参加とあって、修行代表幹事からが皆さんにご紹介がありました。
谷さんと高山さんは、どうやら勝海舟と谷干城の繋がりの話で大いに盛り上がったようです。
勝海舟の日記に何度も谷干城の名が書かれているとか…。
そして、皆さんが飲んで食べて盛り上がっている中、BSジャパンの撮影クルーは、
何も口にせず黙々と撮影を続けていました。BSジャパンのお二人、ご苦労様でした!
残念ながら、本タイムズ発行時には放映は終わっていますが、
8月12日(土)21:00~23:00放送の「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」を楽しみにしています!
今秋、なんと、長谷川先生は大東文化大学秋期講座で坂本龍馬を取り上げるそうです。
[講座名] 『坂本龍馬と幕末維新のヒーローたち』
[場所]   大東文化会館 〒175-0083 東京都板橋区徳丸2-4-21
[日時]   11/11, 18 12/2, 9, 16 (いずれも土曜日の13:30~15:00) の5回。
[パンフレット請求] 大東文化会館地域連携センター TEL: 03-5399-7399
Mail: chiiki@jm.daito.ac,jp HP: http//www.daito/ac/jp
                                 幹事 本下



『明治維新を再考する』②
【2017/09/18 11:20】 エッセイ
明治維新を再考する②

明治維新は、どこにその基点を求めるべきか、学界でも色々な主張がなされているようである。
それらを列挙してみると、以下のようになる。

3ラクスマン一行樣来航図松平定信170918レザノフ



①最も早いのが、『政治史的起点』としての寛政の改革に求める考え方。
これは、寛政4(1792)年ロシア使節ラクスマンが「エカテリーナ二世」の親書を持参し、尚且つ、日本人漂流民である伊勢の人「大黒屋光大夫」の送還を兼ねて「根室」に来航し、交易を求めたことによる。
幕府は、「ラクスマン一行」を役7カ月待たせた上に、「信牌」を公布した。
これは、幕府が公式に「長崎港」に入港を許可したものとして注目される。時の幕閣の責任者、「松平定信」は、「開国を覚悟」したと伝えられる。
漸く、「海防が政治的日程に上った」という意味で、対阿外政策の変更を検討したという意味で、画期的なものとされる。
幸いにして、ラクスマンは、長崎に立ち寄ることなく帰国したので事なきを得た。然し、文化元年(い804)に、この信牌の写しを持参してレザノフが長崎に来航、前回のラクスマン同様漂流民を護送してきたのである。「人道的観点」からの、「通商拒否」が困難になるとのロシア側の作戦でもあったが、半年近くを待たせた挙句、強制退去ということになった。此の時点で、幕閣の責任者はすでに松平定信でなく、「寛政の遺臣」といわれる老中たちであった。対外政策に精通していなかったこと、海外情報が十分でなかったこと、とりわけ「オランダの東インド会社」の衰退によって、「オランダ風説書」が欧州事情を十分に伝えられなかったことも考えられる。幕府の強制退去命令に怒ったレザノフは帰国途次、蝦夷や樺太で狼藉を働き「外交上の礼儀を弁えない」幕府への嫌がらせとなって、幕府は非常な危機感を抱くことになる。以後、連続的に日本近海に船舶が現れることになる。
とりわけ、「フェートン号事件」(文化5年・1808)事件は、遠国奉行たる「長崎奉行」の切腹事件と云う、幕府の対外政策を見直すべき事件であったが、後の「アヘン戦争情報」や「フェートン号事件」、と幕府の対外政策は深刻の度を増してゆく。天保の改革という、内政の失敗によって、幕府は次第に統治力を失って行くことになる。
以下、順を追って書きついで行くことにするが、特に対対外政策の破綻を軸にしたもので明治維新の原因の一端を追ってみる。

『明治維新を』考える
【2017/08/20 09:58】 エッセイ
「明治維新を再考する」①

歴史は常に勝者の側から「過去の記述」が行われる。そうして、築き上げたその新体制が続く限り「礼賛型の史観」が生き続ける。明治維新は、封建的な「徳川幕藩体制」を打倒して「近代国民国家」を築あげたのであったが、それは「世界的な視点」から捕えないと間違う危険性が孕んでいる。徳川幕府(幕閣)は、俗に300諸侯といわれるように最大の経済力と軍事力に裏付けられた「大名としての徳川氏」が、他の大名を屈服させ、臣従させた統治体制であった。そして領地を与えられた大名に、大幅な自治権を持たせ、それを身分制度による分業システムにとって分国統治させ、国家的・公共的事業等は「使役」として各大名に負担させた。宝暦年間の「木曽川治水工事」を薩摩藩に課したのがその典型である。「武家諸法度」や「禁中幷に公家諸法度」の法令は統制策の一環として理解すべき性質のものであった。さらに「参勤交代」や「勅使」を制度に組み込んで国内体制を維持し、対外政策は寛永年間に「キリスト教流入制限」を主目的としつつオランダや中国等に貿易港を長崎に限定した管理貿易システムを取った。それらの国内外政策を制度化し、安定化させるのに半世紀以上の日月を要した。将軍の代でいえば、四代将軍・徳川家綱の時代に一応完成を見たと云える。
170824前田藩格家家紋2170824薩摩藩

徳川時代を一代で現出させた「家康」は、この天下を安定的に維持していくために「反乱分子」の危険性を持つ豊臣系の大名たちを「取り潰し」、「徳川に刃向う事の危険性」を実例で以て示した。それは反面「力の誇示」でもあり、臣従強制策の面を併せ持った。それは一般には「武断政治」といわれる。それ故に、反乱を起こさせない体制は「二世紀半」もの長期にわたる「外見上の平和」が保たれていたのであった。本質的には「覇道主義」であって、「徳治主義による王道政治」とは異なる。したがって、「対外政策の破綻」から統治の牙城を崩され、権力の衰退を「天保の改革の失敗」等でもさらけ出した。「海防」が考え方や、実践論としても政権当初からのものと大差がなかった。各大名に地域をしていして守らせるとしても、全日本としての海防体制は遂に最後まで築きあげられなかった。
170824伊達藩家紋2170824毛利藩家紋


対外政策の破綻は、徳川幕藩体制が当初から持っていた宿命的なものであった。鎖国制度の実施当初はとれで大きな問題はなかったが、なにせ二世紀半と云う長い「徳川政治」が続いている間に、西欧社会は「市民革命」を経験し、人権思想と「合理主義的精神」を発展させた。そのうえに咲いた「第一次産業革命」によって、資本主義(ある意味では近代市民社会)国家を形成した。それは「資源の輸入と製品の販売先の探索」となってくる。英国でまず「綿織物工業」を「動力革命」で発展させたのがその始まりであった。世界の七つの海を制覇した「島国・米国」その国土面積は日本と大して変わらない。製品の輸出先として東アジアにその矛先が向けられたのも故なしとしない。

一方で、米国は18世紀後半の、英国本国からの独立に始まり、開拓者精神と相俟って欧州同様の産業化が進んだ。南に隣接するメキシコとの「米墨戦争」に勝利して、太平洋航路が開けた。それはテキサス併合に始まり、カリフォルニアやニューメキシコ州の併合となって国力は新興国家の大いなる勃興と繁栄の道を開いた。欧州が、隣国との戦争に国力の停滞(英仏を除き)の合間をぬって新興国としての米国が東アジアへの航路の確保から、海外進出を企てたのも多分に好都合に作用したと云える。ナポレオン戦争の余波は、オランダ併合となり「東インド会社」の前線基地としての没落に入れ替わって英国の台頭となる。アヘン戦争が天保の改革の直前に起ったことと、日本の幕末を現出したことは無関係ではない。こうした世界の勢力地図の変遷を徳川幕閣はどの程度まで詳細に知っていたか、18世紀後半から始まる、西欧諸国の日本近海への出没が「何を意味しているか」という、根本的な問いはなされず、稚拙な海防政策が徳川治世の当初に比して大きく進展していなかったことにも原因を求めることが出来る。つまり極端な「内政重視型」の統治体制はそのまま引き継がれたのである。したがって、「オランダ国王の開国勧告」も受け入れないでおわった。「ペリーの来航」で、近代海軍の戦闘能力を確認することで、鎖国制度は終了する。中央集権による、国家としての軍備を持たなかった所に徳川政治の対外政策の盲点ともいえるものが克服できなかった。従って、明治新政府が西欧先進諸国の「近代的軍隊」をいち早く取り入れたのも、徳川幕藩体制の海防の脆弱性を克服すべく、体制整備することが喫緊の課題であったのであった。


「秋月種茂」と「上杉鷹山」兄弟のこと
【2017/07/19 17:06】 エッセイ
「秋月種茂」と「上杉鷹山」兄弟

本年四月、高鍋出身の先輩から「秋月家」や「高鍋藩」の話をいろいろと聞かせて頂いた。上杉鷹山は「江戸期の代表的名君」として危機に瀕していた出羽の国「米沢」の藩主・上杉家を継いで、藩主や藩主の後見役に在る事およそ半世紀を掛けて負債を消滅させた。これは誰でも知っている鷹山の伝記で、三十五歳で家督を譲る時に書き遺した「伝国の辞」は夙に有名で、米国のケネディ元大統領をして「尊敬する日本人」として称賛された。
ところが、実兄の「秋月種茂」も負けず劣らずの名君で、高鍋藩の二百五十年で全盛期を現出した。弟の鷹山も兄を尊敬すること一方ならぬことがあったという。
170609秋月種茂170309上杉鷹山立像170820高鍋藩史話2


以下、『高鍋藩史話』(安田尚義著・鉱脈社)の解説(石川正雄)から引用して記す。
高鍋藩で種茂公のことを清観公と尊称するのは、その法名が「清観院殿」であるからで、敬愛をこめている呼び方である。治憲公を鷹山公というのはその雅号を称しているのである。清観公の雅号は鶴山という。だから「鶴山公と鷹山公」と云うのが良いかも知れない。鷹山公の幼名は松三郎と云い、種茂公八歳年長の実兄である。松三郎が九歳の時、遠い米沢の上杉家に養子に迎えられたのは次のような事情であった。
 高鍋藩第六代藩主秋月種美の夫人は、筑前黒田家の分家秋月城主黒田長貞(三代目)の二女ハル子で、その母瑞耀院は第五代米沢藩主・上杉綱紀の娘であった。瑞耀院は米沢藩の当主上杉重定に向かい「御身男児おわさず、養子の御意ありと聞き侍る。余が外孫秋月佐渡守の二男松三郎は今年九歳なれど発明にして、且つ孝心殊勝なり。且つその遊戯する所尋常の小児に似ず、人皆奇異の生まれと誉めぬはなし。御身の娘幸姫に取り合わせ世嗣となし給わらば如何ばかりうれしからん」と言ったという。「重定公は大いに悦び給い、御養子に定められしとぞ」(『鷹山公偉蹟録』)松三郎は重定にとって従兄弟の子、上杉家から言えば曾孫に当る。忽ち内約が成立した。宝暦九年(一七五九)三月、重定四十一歳、幸姫七歳であった。
高鍋藩家老三好善太夫重道は若君の上杉家入りを心から悦び、お祝いと訓言を差し上げた。三好善太夫が訓言を差し上げたのは二度である。最初はこの時で「わが家より養家を大切にすべき」心得を述べ、二度目は松三郎が上杉家入りの時、「奉贐書」を差し上げた。この二つの訓言には善太夫の教養と人間性がにじみ出ている。治憲はこれを座右に置いてみずからの戒めとしていたという。
 当時の米沢藩は経済的に窮乏し、五両の金さえ思うようにならず、参勤交代に供する諸士達はその費用の自弁を余儀なくされていた。治憲は米沢藩復興のため艱難に耐えて行くのである。治憲は実兄清観公を尊敬し、「兄の才識は余の到底及ぶところではない。幸いに世に知られるに至ったのは、上杉の家名と大藩であった故とによるもので、恥ずかしい」と言っていたと伝えられている。
清観公種茂は、種信が藩政の正常化に成功し、種政が産業を復興させ、祖父種弘と父種美が文化の基礎を固め、英才を他国に留学させる等、幾多の蓄積の後を受け、存分に経綸を行うことが出来、高鍋藩の黄金時代を現出し、スケールの大きい、余裕のある魅力に満ちた人物になっている。
なお、この兄弟は学問の興隆にも意を用い米沢に在っては「興譲館」高鍋に於ては「明倫堂」の伝統を受け継ぎ、二百年余りを経た今日も「山形県立米沢興譲館高校」と「宮崎県立高鍋高校」として両校の交流が続き、ともに伝統校の名に相応しい進学実績を挙げている。素晴らしいことと讃辞を送りたくなる。


吉田松陰の【国を想う心】
【2017/06/23 18:38】 エッセイ
『吉田松陰の国を想う心』

吉田松陰は、「国を想う志」に生きた人であった。安政六(一八五九)年十月二十七日「政治犯」として幕府から処刑された。数え年で三十歳の若さであった。松下村塾の第三代目に当たる主宰者として多くの俊秀たちを育成し、処刑前日に書き上げた『留魂録』で門下生や「江戸獄」での同囚であった志士たちに後事を託して潔い最期を遂げたと伝えられる。『吉田松陰全集』(大和書房)に、下総佐倉藩の「依田学海日記」や、伊勢の世古格太郎の著になる『唱義見聞録』からの抜粋で吉田寅次郎、長州藩の公用人として幕府評定所での判決に立ち会った小幡高政の談話や吉田松陰の処刑を行った本人である山田淺右衛門の後日談など、幾つか収載されている。それによると世古格太郎のみが、潔い最期に疑問符のつく表現になっているが、他の三著は具体性があり、処刑前に松陰が書きのこした親族や門下生への遺言、絶筆や辞世の句などとの整合性を勘案して見ると、やはり潔い態度であったと思われる。それは、自分の志を精一杯生きたという自分なりの達成感がそうさせたのであろうと思われる。それ故「死罪申渡し」の直後に朗朗と辞世の句を謳いあげ、評定所の関係者たちが「粛然として襟を正す」といった雰囲気が評定所内に醸し出されたという。さらに刑死に臨んできちんとした礼儀正しい態度で、関係者に挨拶を行い、従容として死に就いたと伝えられるのは多くの松陰の伝記が記すところである。

170331正装の吉田松陰150723安藤優一郎著『吉田松陰留魂録』150625松陰と幕末明治の志士たち 小170506吉田松陰韜晦の朝像


その辞世の句こそ、吉田松陰の本質を凝縮しているものであると考えられる。まず、その句を記してみると『吾今国の為に死す、死して君親にそむかず。悠々たり天地の事、鑑照明神にあり』。五言絶句で、漢字二十文字の辞世の句である。この意味する所を記すと「私は今こそ国のために命を捧げよう、死すとも忠君孝養の道から外れることはない。永遠に果てしなく続く、この天地の事を思う時、神々よ私の正しい志行をご覧下さい」という程の意味になる。山鹿流兵学家として、長州藩を守り、さらには日本国を先進国からの侵略の危機から守ることを強く願った吉田松陰ならではの辞世の句で、将に殉難に相応しい内容である。就中アヘン戦争を詳細に研究し西欧諸国の侵略の深謀遠慮を洞察していたがゆえに、彼等のなすがままになる為政者の「事勿れ主義」への批判となって、幕府専制策に反する者を弾圧する刑死と云うことになったのである。

では、兵学家松陰の生涯を概観してみよう。江戸期の武士は長子相続を原則とした。松陰も父の杉百合之助と母たきの次男であり、兄の梅太郎が健在であったことから、早々と父の弟である吉田大助の仮養子となった。翌年に養父は死去したので松陰は吉田家八代目の家督を継ぐこととなった。吉田家の始祖友之充は元禄十三年和漢の兵法に通じていたことから、長州藩主毛利吉廣に召され、後に山鹿藤介に師事して兵学を学んだという経緯がある。したがって松陰の時代は、毛利藩で北條流の多田、山本流の大西の両家とともに、家伝の山鹿流の兵学を藩校明倫館で講ずるのが吉田家の任務であった。
こうした職務であるから藩内の家格も家臣団の中核をなす「大組」に属し、それは生家の杉家より高いものとなったが、幼少の為に松陰は生家に同居することになる。山鹿流軍学師範を宿命づけられたために、その育成には後見人や代理教授が指名されたが、その多くは養父大助の高弟たちであった。とりわけ父の末弟であった玉木文之進は兵学者松陰の育成に心血を注ぎ、幼児に対する教育とはとても思えない程の熱血漢丸出しの厳しい教育だったようで、後年になって松陰が玉木の叔父ほど怖い人はいなかったと回想する程であった。いってみれば今日でいうスパルタ教育そのものであったらしく、机を挟んで対面していて、姿勢が悪いと云っては殴り、居眠りをしようものなら容赦なく体罰を加え、もの覚えが悪いと叱るという厳しい教育であったから、傍らで我が子の姿を見ていた母親が「大次郎は逃げればよいのに」と漏らしていたと伝えられている。五歳や六歳の童子に『孟子』を読ませたと云うから、それは教えを受ける松陰にとっては大変な負荷であり、辛い修業以外の何物でもなかったに違いない。だが「藩主への忠節心」に熱い一途な玉木文之進は、自らも山鹿流の免許皆伝であり、孟子にも造詣の深い文武両道の教養人であった。それが、藩主への奉公に尽くそうと情熱を燃やしたのであるから、その期待に応えようとする幼い松陰には相当な重圧となって、いわゆる普通の「子供時代」を過ごさなかった。松陰死後の後日談で二歳年下の妹「千代」の述懐によると、同年代の友人と遊んでいた記憶がないとのことである。

しかし歯を食いしばって厳しい修業に耐えた松陰は、十一歳の時、藩主の毛利敬親への御前講義(親試)で、居並ぶ藩の重臣たちの期待以上に見事な成果を披露する。勿論藩主も驚きのあまり「この教育担当は誰であるか」と重臣たちに問いかけたという。玉木文之進は自分が厳しい教育をした成果として満たされた感懐だったに違いない。そうして、二十歳で独立師範となるまでの数度の御前講義は全て藩主をして満足させるものであった。長州藩天保の改革を指導したことで知られる藩の先達・村田清風は、松陰の飛躍を期して持論である「四峠の論」を常々説いていた。四峠の論とは三方を連山に囲まれている萩のみでの修業でなく、広く知識や人格の陶冶を求めて江戸や長崎、或は京阪に遊学してその成果を藩主への貢献を為すことこそ肝要であるという意味である。清風の関連書にこの論は出てこないが「口碑」として、長州では広く知られる一種の教育論であった。それが嘉永三年に実現した「鎮西遊学」であり、翌年の「江戸遊学」であった。早速の鎮西遊学は平戸、長崎、熊本、佐賀に山鹿の後裔や碩学、藩校を訪ねたのもそのためである。とりわけ平戸における葉山佐内の下での修業は大きな成果となった。修業時代に西欧国家間の盛衰の実態について説明を受けていただけに、アヘン戦争を始めとする西欧諸国の東洋進出、或はロシアの南下政策等の本を貪るように読破した姿が『西遊日記』に記されている。また師の葉山佐内は有名な陽明学者であり、『伝習録』との出会いは師が人格的にも優れた人物であっただけに松陰にとっては願った通りの誠にありがたいことであった。また、この時に水戸の会澤正志斎の著述になる『新論』にも触れる。長崎ではオランダ船に乗り船内を見物し西欧文明の一端に触れ、また江戸期の唯一世界に開かれた街の見学も怠りなく、生きた学問を目指していた松陰にとっては格好の修業機会となった。なお、江戸期に西国の十四藩は「長崎聞役」という藩の情報掛の役を持つ家臣を派遣しており、長州も「夏詰」という立場ながら蔵屋敷の設置と周辺海域警備の任務を持っていたことも付記しておこう。

長崎、平戸での修業を終えた松陰は、帰路で熊本と佐賀に立ち寄り、末弟の聾唖の治癒を清正廟に祈願している。そして終生の友人となる宮部鼎蔵との邂逅を果す。宮部は松陰の十歳年長ながら、同じ山鹿流の軍学者であった。鎮西遊学は松陰にとって、藩の先達である村田清風の助言は納得のいくものであったに違いない。そうして帰国を果すが、平戸で読んだ書籍が江戸からの購入であったことを知って、翌年に今度は藩主の参勤交代に随って江戸遊学を果す。江戸では長州の藩邸があり、重臣も多く勤務しているので純然たる遊学と云うわけにはいかない。山鹿流師範としての職務もこなしながら、合間をぬって碩学の門を叩き、傍、全国の人材との交流も精力的に行う。佐久間象山との出会いはこうした中で師弟となり、一方では交流仲間から長州人は日本の成り立ちに暗いなどと指摘も受けた。そして、そこで運命の東北海防視察旅行の話が出る。ロシアの南下が津軽に及んで、上陸し狼藉を働き、津軽海峡を我がもの顔で航行しているという。国防意識の高い宮部と松陰は早速、視察のために出発の約束を交わすが、直前になって過所手形の発行が出来ないことに遭遇する。これを強行(脱藩)したことから松陰の人生航路は大変化を来し、藩庁は吉田家取り潰しという厳しい罪科を課す。松陰の大成を願った藩主が「国の宝を失った」と嘆息したのはこの時の事である。そして直ちに「十年間の諸国修業」という粋な計らいを享受する。反面、水戸で会澤正志斎から親しく学び、日本の何たるかを強く認識できた事から古代史の猛烈な読書に取り組んだのであった。
150505佐久間象山150418ペリー尊攘(弘道館)




そうして諸国修業をして、再度江戸に着いた途端に「ペリー来航」に遭遇する。夜を徹して浦賀に駆けつけてペリーの艦隊を具に観察し、西欧の文明や技術に裏打ちされた軍事力の源泉である先進国の視察を思い立つ。然し海外渡航は幕府の厳禁とする所から、ペリーの再度の来航時に下田から密航を企てるが条約締結直後のため、日本の法を犯す事は不可としてペリーは拒否する。この時をもって松陰の人生は自由を失う。藩は幕府に遠慮して親元での謹慎命令を藩獄に収監してしまう。だが、志の高い松陰はめげない。獄中に在って同囚との勉強会や、自身の猛烈な思索と読書は在獄十四カ月に六百十八冊にも上る。この勉強会で『孟子』の講義が、免獄後の松下村塾へと伏線となるのであるから、人生とはどう展開するかわからない。杉家に謹慎となった松陰は親族を相手に『孟子』の講義を完了させる。
安政三年九月、外叔父の久保五郎左衛門の依頼で松陰は『松下村塾記』を執筆、此の時点では松下村塾は松陰の主宰ではない。しかし、内容からすれば松陰の主宰者的思いが綴られているので、この直後に久保から松陰へと引き継がれたと考えてよい。仮に、松下村塾記を起点としても安政五年十二月の閉鎖までの松下村塾での教育活動は二年三ヶ月に過ぎない。幽囚の身で日本を守る悲願は直接行動が出来ない。従って、教育を通じて責任の一端を果すのが松陰の残された唯一の道であった。多くの松陰伝が「教育者」としての側面を強調するが、それは松陰のペリー来航後の難局打開のための行動からやむを得ない人生航路となったのである。後年、多くの国家指導者を輩出したが、松陰は彼らに英才教育を特別に行ったわけでなく、松下村塾記に記したように、君臣の義や華夷の弁をわきまえつつ「奇傑非常の人」の育成をめざし、『学は人たる所以を学ぶなり』として学問への取り組みを奨励したのであった。松下村塾主宰中に書き遺した文稿は迫りくる外圧の難局打開の論策が多いのは兵学家として当然であったが、塾生に対しては問題提起として生きた教材となった。

幕藩体制下にあって松陰は陪臣の身である。一陪臣が国策を公的に論ずることは内容の正否にかかわらず、幕府は厳禁としていた。従って京都の梁川星巌に送った『対策一道』や『愚論』、『続愚論』等の論策が梁川宅に捕縛に向った幕吏によってそれが幕府に押収され、松陰の政治犯扱いが確定的になる。それは安政五年八月のことであった。なお吉田松陰が攘夷論者と理解されることが多いが、松陰は本来開国論者であった。安政五年四月に書かれた『対策一道』には「国家の大計を以て之れを言はんに、雄略を振ひ四夷を馭せんと欲せば、航海通市に非ざれば何を以て為さんや」とあり、富国強兵の実現によって西欧諸国に対する独立不羈の貫徹を願っていたが、ペリーの砲艦外交や幕府の軟弱な対応策への批判から攘夷を唱えたもので、皇室を中心とした新たな国体の実現を模索していたのである。従って安政五年七月の『大義を議す』の論稿で、無断勅許での条約調印を激しく批判して『天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。・・・・・・征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れを何とか謂はん』と、公然と討幕を唱えたのであった。国の為政者たるもの「義を正し、道を明らかにすること」を怠ってはならない。独立国を全うするため、松陰にとっては『勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』であって、ここに天朝を尊崇して義や道を明らかにしない幕府は討滅してもやむを得ないとする松陰の国家観があったのである。それにしてもさすがに兵学家である。周到に後継者を育成し、国の将来を門下生に托して「志の継承」を願いつつ波乱に富んだ吉田松陰の生涯は、今なお私達をして感動させずにはおかない。


上杉鷹山への『訓戒書』二通
【2017/05/26 10:33】 エッセイ
宝暦九年、日向・高鍋藩第七代藩主「秋月種美の二男」だった松三郎(後の上杉鷹山)は、出羽米沢の名門大名家上杉氏の養子としての内約が決った。
高鍋三万石の外様小藩から、屈指の名家・上杉家に養子入りするに当たり、高鍋藩老臣(家老)三好善大夫重道は、二度にわたり懇切丁寧な「訓戒書」を書き送っている。
こうした訓戒を心に秘めて、上杉鷹山は江戸期の屈指の名君となった。
米国ケネディ新大統領の就任に当り、インタビューした日本人記者が「尊敬する日本人は誰か」との問いに、ケネディは、即座に「それはウエスギヨウザンです」と答えた。
インタビューした記者が鷹山の人となりを知らなかったというエピソードがある。
その鷹山に訓戒書を書き与えた三吉善太夫の心の籠った文を紹介して見る。
実は、上杉鷹山には「種茂」という兄がいた。この種茂公も大変な名君である。
兄弟そろっての名君なのだ。このことを知る人は少ない。 
170609秋月種茂兄弟(種茂と鷹山)170609秋月種茂170609上杉鷹山



三好善太夫の訓戒書①

宝暦九年三月五日、公重定公御養子の御内約あり、其の年十二月「秋月家の老臣・三好善太夫重道」公に上言す。
その書に曰く、

懼れながら、このたび、公子の上杉家へ御養われ成り候、御事、大なるご幸(さいわい)は、偏にご両親様のご恩德によりてなり。
殊更「心華院樣」ご由緒を以ての事なれば、慈母の御恩深き所、お忘れなく。
この上、御雙方(そうほう)樣への、「御孝行」の第一は、御養家樣方へご親切を尽くされ御事へ成され候義、肝要と存じ奉り候。
ついで御實方、御兄弟樣へ御睦まじく遊ばされるべし。
扨て、貴賤ともに人々、わが身に天より受け得たる「明徳」を、曇らざるように、お修業なされ候こと専一に御座候。
その訳は下賤にてもわが身、明らかになり「善道」を行わざる時は、小家も治まらず。
まして、況や貴人は御身随分と明鏡の如くなくては、下の善悪を知る事能わず、たとえ良臣ありとも朋輩(ほうはい・同僚)の事なれば、善悪たやすく申上げ難く、差控えそうらえば、善人悪人、お見違えこれあり。善人遠り、悪人近く、様(よう)になりては、自然と君も悪に移り、小なれば身を失い、大なれば家を亡ぼし、国民難儀に及ぶ事なれば、別けて大人はご幼年よりのお育ち、御修業、御大切なり。
況や御養子ともなれば、御他家をも御嗣ぎなされ、万一お修業なく御不明にて御養家、治まり申さず候えば、大なる御恥辱にて実父の家を治め得ざるより、その罪深く御雙方樣へ御不孝と相成るゆゑ、一入公子、御身の御養育、御大切に存じ奉り候。右、御修業は、恩を忘れず恥を知り、人道を能く御合点あり。四書少學、近思録の御学問を御一生涯、御懈怠なく成され候様願い奉り候。
兎角、善悪並び立たぬものに候えば、善に進めば、悪は退き、悪行なれば、善滅るもの。
されば仮初(かりそめ)にも悪事に傾く事をなさらず、善事に御染まりなさるべく候。尤も、上杉御家柄ゆゑ、御良臣多く、如何様よき御教訓も有るべく御座候えども、當時、身不肖ながら老職を相勤むることなれば、末々まで公子の御繁栄を願い、御成長の後も、折節(おりにふれて)、御覧くだされ、寸分の御為にも相成り候えば、生々あり難き仕合せと存じ奉り、心底を以て、諸人の嘲(あざけ)りをも顧みず、愚かなる事どもを自筆にて書き綴り、呈上畢。
十二月吉旦 三好善太夫
170609高鍋藩校明倫堂170609藩校興譲館





三好善太夫の訓戒書②

宝暦十年六月二十六日、御養子御願い済み、十月十九日秋月家一本松邸より桜田邸へ御引き移りあらせられる、重道復た、一篇の贈言を上(たてまつ)る。

一、 兼ねがね、御父君の御庭訓の如く、忠孝の御事第一の御勤め、片時もお忘れ成され間敷き事。

一、 御学問、御武芸は忠孝の基にて御座候えば、御懈怠成され間敷く候事。

一、 其の御家の御式法、小事たりとも御違犯なされるまじく候。お大臣は御國の柱、必ず御用い成され、小臣といえども異見を申し候者、必ず御悦び、御受入れ成さるべく候。諌めを納(いる)る事は人君の美徳にて、諌めを申し候臣は戦場の一番槍の功より増(まさ)ると、やんごとなき御方の仰せられし事、かねがね御覚悟成さるべく候事。

一人に君たる御身は寛仁大度と申し候て、ゆったりとして人を憐れみ、御胸中廣く、人を疑うことなく何事も悪味(あくみ)の御座無き候樣に御心懸け遊ばさるべく候事。
御身持、第一の御執行は敬の一字に御座候。敬と申す事むつかしき事にてもなし、御心のむきを正直にして、心の本を束ね、末の散らぬ樣に成され、立居振舞は番人の附いて居る如く、事をするに目附のある樣に影日向なく油断致し申さずか、敬と申すものにて是に残る事無く御座候。
然れども、始めあらざる事なし、終りある事難しと申し候て、続き申さず候まま、一日より一月に至り、一月より一年に至り、一年より百年をなし候へば、何事も災の出候事もなく、身の御養生の悪しき事もなく候。
諸々の邪悪も除き申し候ゆえ、敬は百邪に勝とも古人の仰せられしためしも御座候。
一、 人の上に居給う御身は何事も謙退深く、我に知恵ありとし給う事なかれ、下より褒めそやし候へば、大方は、我は知恵ある者と思召し候より、萬の悪事も出来、諌めをも拒き給う事に候。奢りを禁じ倹約を守る人に施したる事は思い給う事なかれ。人に恩を受けたる事は、聊かも忘れ給う事なかれ。善事は少なしとも、必ず為し給うべし。悪事は少なしなりとも、必ず為し給うべからず。我が身をつねって人の痛さを知ると申す事に候。我嫌いの事は、人も同じく嫌いなる事と思召しやり、人にしかける樣に致し、萬に思いやりを致し候事、恕の道と申し候て、御一生涯御執行、是に過ぎたる事なく候。愚かに拙き人も人の上を譏り、咎むる事は明らかなり。賢く明らかなる人も、見の上の悪しきを知る事は、暗し人の上を責むる心を以て自身を責め、我が身をゆるす心を以て人をゆるさぬは、大概宜しからずと古人も宣べり。

今度、我が国の公子、上杉家へ入られ候に付き、御幼少よりも御心存に成り申すべくの條々、重道が愚かなる書き付け、恐れ乍ら御餞別に差上げ奉り候。
夫れ、人は貴賤となく天地を大父母として生まれるは、大父母の御心にかなうように心を御用い成さるべく候事、御肝要の御儀と承り候。天地の大父母は、何をか心とするなれば、天地は物を生ずるを以て、心とすあれば、物を育て害わす慈悲の心を以て心とし、仮初にもむごき事を好まぬ君を敬い、父母に考し、衆人を憐れむに至るまで、皆此の意にあらざる事なし。されば、人の君となりて仁に止ると申す事に候へば、人君の道に至る肝要の御事と存じ奉り候。
天地の心に叶い給へば天道の冥福もあり、人道にも叶い給い、幾千世までも目出度く御栄へ成され候御事、必定の理り、にて御座候。
暫く書き続けなば、濱の真砂の数より多かめれとおさなき御心には諭し難き事をも書き綴りても、益なく且つは筆の力もなければ暫くおくと也。

宝暦十庚申年八月吉旦 三好善大夫重道 敬白


吉田松陰『七生説』
【2017/05/21 22:36】 エッセイ
七 生 説   
(丙辰幽室文稿)安政三年四月十五日(一八五六)

天の茫々たる、一理(いちり)ありて存し、父子祖孫の綿々たる、一気ありて属(つづ)く。人の生まるるや、斯の理を資(と)りて以て心と為し、斯の気を稟(う)けて以て体)と為す。体は私なり、心は公)なり。私を役して公に殉(したが)ふ者を大人と為し、公を役して私)に殉(したが)ふ者を小人と為す。故に小人は体滅し気竭(きつ)くるときは、則ち腐爛(ふらん)潰敗(かいはい)して復た収(おさ)むべからず。
君子は心、理と通ず、体(たい)滅し(めっ)気竭(きつ)くるとも、而(しか)も理は独り古今に亙り天穣を窮)め、未だ嘗て暫くも歇(や)まざるなり。
余聞く、「贈正三位(さんみ)楠公の死するや、其の弟正季を顧(かえり)みて曰く、『死して何をか為す』と。曰く、『願はくは七たび人間に生れて、以て国賊(こくぞく)を滅(ほろぼ)さん』と。公(こう)欣然(きんぜん)として曰く、『先(ま)づ吾が心を獲(え)たり』とて耦(ぐう)刺(し)して死せり」と。噫、是れ深く理気(りき)の際に見ることあるか。是の時に当り、正行.正朝の諸子は則ち理気並び属(つづ)く者なり。新田.菊池の諸族は気離(きはな)れて理通ずる者なり。是れに由りて之れを言はば、楠公兄弟は徒(ただ)に七生のみならず、初めより未(いま)だ嘗(かつ)て死せざるなり。是れより其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起(こうき)せざる者なければ、則ち楠公の後、復た楠公を生ずるもの、固)より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや。
余嘗て東に遊び三たび湊川を経、楠公の墓を拝し、涕涙禁ぜず。其の碑陰(ひいん)に、明の徴士(ちょうし)朱生の文を勒(ろく)するを観るに及んで、則ち亦涙を下す。噫、余の楠公に於ける、骨肉父子の恩あるに非ず、師友(しゆう)交遊(こうゆう)の親(しん)あるに非(あら)ず。自ら其の涙の由る所を知らざるなり。朱生に至りては則ち海外の人、反って楠公を悲しむ。而して吾れ亦生を悲しむ、最も謂(いわ)れなし。退(しりぞ)いて理気の説を得たり。乃(すなわ)ち知る、楠(なん)公(こう).朱生(しゅせい)及び余不肖(ふしょう)、余不肖を資(と)りて以て心と為す。則ち気属(つづ)かずと雖(いえど)も、而(しか)も心は則ち通ず。是れ涙の禁ぜざる所以なりと。余不肖、聖賢の心を存し忠孝の志を立て、国威を張り海賊を滅ぼすを以て、妄りに己(おの)が任と為し、一跌(いってつ)再跌(さいてつ)、不忠不孝の人となる、復(ま)た面目(めんぼく)の世人(せじん)に見(まみ)ゆるなし。然れども斯(こ)の心巳(すで)に楠公諸人と、斯の理を同じうす。安ぞ気、体に随って腐爛(ふらん)潰敗(かいはい)するを得んや。必ずや後の人をして亦余を観て興起せしめ、七生に至りて、而(る後可と為さんのみ。噫、是れ我れに在り。七生説を作る。

解 説
楠木正成の精神が、朱舜水に、また自らの内にも伝わり生きていることを実感した松陰は、そこから精神の不滅を確信し、これを理気の説でもって説明する。そして楠公その他の優れた人々と理を一にしている自分の精神を、七生の後の人々までもこれを受け継ぎ奮い立って欲しいものだと願う。彼は幽室に「三余読書」と「七生滅賊」を座右の銘として掲げて自らを励ましていたが、「七生説」はその頃の松陰の人生観を示すものとして重要である。





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