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『上杉鷹山ー米沢藩の再建者』ー①
【2017/03/08 18:14】 エッセイ

『上杉鷹山』 -江戸期の名君ー①

昭和36年(1961年)1月、米国第35代大統領に就任した「G・F・ケネディ」は異色ずくめの大統領だった。競った「R・ニクソン」との大統領選挙史上でも例のない程の接戦の末に勝利したこと。そして、現在は公用語として禁止されている「WASP」に該当しない、アイルランド系の「カトリック教徒」であった。さらに反対者の多いとされた米国南部のテキサス州・ダラスで何者かに銃殺されるという衝撃的な生涯を閉じた。任期半ばでの死であった。現在でも暗殺者は特定されていない。

160229上杉鷹山ケネディ大統領



就任間もないケネディ大統領に日本の新聞記者が「尊敬する日本人は誰か」と質問したところ、即座に、それは「ウエスギヨウザン」です。という答えが返って来たのだが、質問した記者たちが「ウエスギヨウザン」って誰だ。どういう人物で何をした人なのか知らなかったというエピソードが伝えられているのは有名な話で、大半の人達が知らなかったのであった。現在では岩波文庫の『代表的日本人』(内村鑑三著)で読むことが出来るし、九十年代に「上杉鷹山」ブームが起きて、沢山の出版物が刊行されたことは記憶に新しいところである。戦前の『尋常小学修身書』でも上杉鷹山は「倹約」の稿で採り上げられている。将軍補佐で老中となった松平定信から、「全ての藩主の鑑」と激賞され、在世中にして名君としての評価が高かった。事実、天明七(1787)年九月に将軍家斉から、在職中の善政で表彰されている。徳川二百六十年余の中で、「名君中の名君」と誰もが称える、米沢藩主であった。

さて、上杉鷹山は宝暦元年(1751)、日向三万石の第六代高鍋藩主・秋月種美の二男として、秋月家の江戸上屋敷一本松邸に生れた。母は筑前秋月藩第四代藩主黒田長貞(長治)の娘(春姫)で、五代藩主上杉綱憲(吉良義央の長男)の娘豊姫(瑞耀院)であるので、八代藩主の上杉重定とは従姉の関係である。因みに黒田長治(幼名長貞)は筑前の外様大名である黒田家五十二万石の支藩の藩主である。鷹山は幼時から優れた才能と孝心の持ち主として評判であったと言われ、後年の名君・鷹山の功績や人と為りを考え合わせる時、興味深いものがある。「栴檀は双葉より芳し」のことば通りであったようだ。重定には正室の後継ぎがなく、幸姫(よしひめ)のみが成長して、養子内約で鷹山が決定した四か月前に側室の勝煕が米沢で誕生しているが、これは側室の子である事と、行末の成長が現代のように確実視されなかったという理由によって内約はそのまま実行された。

鷹山が高鍋三万石の小藩の二男から、名門上杉家に養子が決定したのは幼時からの評判と、瑞耀院(吉良義央の孫)の働きかけがあったからと言われる。縁戚からの養子ということであるが、江戸期を考える時、「養子制度」と云うのは家系を維持していく上で重要な役割を持つことに注意をすべきである。それは、将軍家から大名、藩士に至るまで養子制度の活用で「家」が継承されていくのである。紀州藩主から八代将軍となった徳川吉宗や、十一代将軍一橋家斉、十四代の徳川家茂、十五代一橋慶喜らがこれによって将軍職を継いでいる。幕末の藩主でも伊達宗城は旗本の山口家からの養子であるし、越前の松平春嶽は御三卿の一つ田安家からの養子である。萩藩の毛利敬親や土佐藩の山内容堂、などは名君として知られるが、宗家の家柄でなく、分家の家系に誕生しながら養子制度の下で藩主の座についたという経緯を持っている。吉田松陰も杉家に生れながら二男ということで吉田家に養子に入って「家学」である山鹿流軍学師範となったのであった。江戸期の「家」は長子相続を原則としたが此れを補ったのが養子制度であった。

話を本論に戻そう。養子が決った鷹山は宝暦十年(1760)、秋月家の一本松邸から上桜田の上杉家上屋敷へ移った。なお鷹山は号であるが、これが最も人口に膾炙したものであると思うので、ここでは鷹山の名称を使う。明和元年(1764)に将軍家治にお目見えし、同年元服して従四位に叙されて弾正大弼治憲と改名した。四年後に家督を継いで出羽米沢藩主となった。しかし、正室の幸姫(前藩主重定の娘)は心身の発達が不十分で、ひな飾りや玩具遊びといった「ママゴト」のような遊び相手を続けたという。鷹山の「忍の人生」はここから始まるのである。家格がものをいった大名家で、小藩の秋月家から名門大名の上杉家に養子入りするにあたって、心配した老臣「三好善大夫重道」(宝永元年・1704~宝暦十年・1761、十一月)は懇切な訓戒書を鷹山に贈っている。これは上杉鷹山の事績を綴った大著『鷹山公世紀』(池田成章編纂:明治三十九年、吉川弘文館刊行)で読むことが出来る。長文なので略記すると、養家を継ぐからには決して恥辱を残す事があってはならぬとし、そのためには忠孝や学問、武芸など上杉家の作法に従い、それに違犯することなきよう生涯にわたって努力精進することなどが詳しく書かれている。三万石という小藩の出身から名門の上杉三十万石に養子として入ることの覚悟を促したもので、鷹山は生涯にわたって此れを秘蔵し続けて守り抜いたと言われる。こうした所に鷹山の人となりを見る事が出来る。鷹山が十歳の頃と思われるから、如何に強固な意志の持ち主だったかが解かる。

170309平洲の米沢招聘

鷹山の「お国入り」は明和六年(1769)であるが、この年に鷹山の師範であり、側医・儒者でもあった「藁科松柏」が死去している。この松柏は時代の危機を示す非常に有名な言葉を残しているので紹介しておきたい。「そこもここも一揆徒党の沙汰にて、日光が済めば山縣大貮が出現、大坂が騒げば佐渡ゆるる、伊勢路ももめれば越路もかしましく、斯様に百姓の心騒がしく成り行き候も、畢竟は一度は治り、一度はみだれ候天道の事に御座候えば、そろりそろりと天下のゆるる兆しも有るべく御座候哉」(鷹山公世紀巻之一)。これは米沢藩士の小川源左衛門の藩政批判への復書の中で書かれている。明和五年(1768)十二月のことで、この頃、明和事件や佐渡一揆、日光社参の伝馬騒動が起きており、幕府は上方や遠国筋農民の徒党や強訴の取り締まりを命じる程であった。田沼意次が徳川家治の側用人となる一方で、鷹山が米沢藩の藩政改革に着手した頃であった。鷹山の改革は、江戸家老の竹俣当綱や藁科松柏、後の中老莅戸善政等のブレーンを擁して着手されたが、重定の頃からの側近であった譜代の老臣・保守派と改革派の竹俣当綱等が対立し、反乱(七家騒動)を起し、改革中止を迫る難儀に遭遇したのであった。安永二年(1773)六月、藩主鷹山に提出された七人の重臣の署名による「言上」であるが、四十五条からなる訴状で「改革を推進する竹俣当綱」への弾劾を含む、改革の政策が誤りであるとする内容であった。いつの世も改革には推進派と反対派(革新対保守)の確執はつきものである。譜代の老臣達からみれば、改革はこれまでの政治手法を否定され、尚且つ人事面でも冷遇されるのが常で、それらは当然不満となって表れる。そうして、七家の代表二人が訴状を持って本丸の鷹山に謁し、即刻に訴状への裁断を迫った。この背景には「米沢藩の極端な財政窮状」があり、この改革を断行しない限り藩が立ち行かなくなるという、危機的状況への対処が必要であった。事実、鷹山が藩主となる直前には「藩」を返上する意見が重臣たちで真剣に話し合われるという事態にまでになっていた。藩主もその覚悟であったと言われ、領地は荒れ果て、農民は逃亡するという深刻な藩政危機の状態にあった。こうした危機に対処するために、鷹山による改革の断行が行われなければならない切羽詰まった窮状があったのである。したがって、保守的な老臣達による、それまでの政治を改革しない限り、この窮状からの脱出は困難であった。その改革グループが「青莪社」を中心とした好学の士たちの集まりで、竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政という鷹山の側近にある人達であった。

170309父は上杉鷹山を称賛記事キャロラインケネディ

此れを年代順に整理してみると次のようになる。便宜上西暦表示とします。
上杉家への養子内約(1759・九才)、上杉家桜田邸へ移る(1760・十才)、竹俣当綱江戸家老(1761・十一才)、森平右衛門殺害と領土の幕府返納問題(1763・十三才)、家督(1767・十七才)、同年米沢春日社に誓文、大倹執行の誓詞、宿老との対立顕在化、米沢初入部と竹俣町奉行、藁科死去(1769・十九才)七家騒動(1773・二十三才)となる。そして三十五才で隠居(1785となり)、先代の嫡子治広に家督を譲る。此の時、有名な「伝国の辞」を書き与える。将軍家斉、在職中の善政を賞す(1787・三十七才)、以後隠居で後見役として藩政改革の継続。1822(文政五年)に七十二才で死去。このように、上杉鷹山の藩政改革・財政再建は「藩主として」、「後見役として」の二度にわたる、息の長いものであった。



『村田清風』--長州藩・天保の改革者
【2017/03/08 11:11】 エッセイ

【村田清風】―天保の藩政改革者―

天保元(一八三〇)年八月、長州藩の瀬戸内地方の各宰判(郡に相当)で「藩専売制」反対の一揆が発生した。その翌年の七月、萩から三田尻へ帰る「藩産物方御用商人」の石見屋嘉左衛門の駕籠と荷物の中から「皮革」が発見されたことを発端として、潘全域を巻き込む「大一揆』が発生した。長州藩ではこれを「天保の大一揆」と呼称している。
長州産の皮革は「長門皮」と呼ばれ、上方(大坂・京都)では上等品として評価が高かったので高価で販売できたのである。だから潘の役人と結託して暴利の期待できる長門皮を始めとして特産物を潘の「産物会所」で統制を加えていたものを、「抜け荷」として秘かに運ぶ所を現行犯的に発見したので農民は一揆をおこしたのである。藩の役人はこうした統制などに商人を利用していたので、農民にとってはこうした統制の裏で「抜け駆け」を監視する必要があったのである。結果は、一行の三人を縛り上げ、三田尻に連行したが、途中からこれを聞いた農民が続々と加わり、石見屋の家を打ち毀しはじめた。

160229村田清風161010毛利敬親



この藩内各地を巻き込んだ一揆の参加した村は百を越え、十三万人を超す農民が一揆に加わったとされる。当然、潘政は滞り、その対策に乗り出さざるを得なかった。吉田宰判の代官だった人物は一揆の首謀者たちに覚書を示した。そこには 一、皆々の腹立ちはもっともなことである。一、上様も気の毒に思っておられる。一、一刻も早く静まってほしい。の三箇条が書かれていた。そして、年貢米の計り方を改正し、百姓が申し立てている「産物会所の廃止」と自由売買の要求や、不正を働く村役人を追放したのであった。
当時の長州藩は巨額の負債を抱え、その解消策として農民たちが商品作物を自由な売買することを禁止し、一方で潘の専売制を強化して藩財政の好転・改善を図ろうとしていた。そのため農民の生活は極端に引き締められていた。この大一揆の背後にあるものが「藩庁役人と御用商人」との結託による「悪政」であると見抜いたのが、村田清風であった。こうした大一揆が発生するのは藩政を司る役人たちが「善政」を行っていないからというわけである。同時に清風は『鎌倉以来六百年、芸(安芸)來三百年の御家と御国を百姓蹴立候口惜さ之事』と自著(此度談)で云っている。即ち伝統ある毛利家と防長二州を百姓どもに蹴散らされて残念であるとの感慨である。反面では、百姓たちが一揆を起さなければならないような事態は、政治を統べる諸役所にあるとも云っている。この年、村田清風は表番頭格に列し「江戸当役用談役」という藩の重要な職務(実質的に家老職に近い)の立場にあった。

長州藩の場合は、藩主とその一門、永代家老二家、寄組の身分階級があり、これらが藩内における「貴族」扱いで、「城から近い堀之内」に邸宅を構えていた。その下の階級に藩士団の中核をなす「大組」(八組とも)があり、高杉晋作や桂小五郎らはこの階級に属し、吉田松陰などは更に下級で家臣として最下級だった。村田清風もこの大組階級の家格で、家老には原則としてなれない階級であった。いわば中級家臣団の一人であったが、清風は人材としては抜群の能力があったことから「江戸当役用談役」という家老級の役職に就き、後年の「天保の改革」の指揮をとることになる。また彼は享和二(一八〇二)年、ニ十歳の時義兄の要務に随行して江戸に出て松平定信に逢い、政治の要諦を伝授されていた。清風は藩庁に対し、多くの建言書を提出していたこともあって、天保八年毛利敬親が新藩主に襲封すると、藩政の改革に乗り出すことになった。公私の区別の厳格な認識を示す逸話が残されているのをみても、清風の願いが藩の善政実施への情熱が高かったものと推察される。「鎌倉以来」が毛利の家臣団の矜持となっていたようである。この意味では、薩摩藩の「島津家」も同様の、鎌倉以来と云う矜持を抱いていただろう。「薩長」の原点が、武家の家門としての誇りとして、「徳川何するものぞ!」という名門意識が内々で働いていたに違いない。事実、島津家も毛利家も鎌倉幕府創設以来の有力な御家人としての誇りある家柄だった。

170425村田清風と藩校明倫館



天保十一年五月と七月に「毛利藩政府」は藩政改革のための大会議を開き、清風や後に好敵手となる坪井九右衛門等をはじめとする有識の士から意見開陳の場を持った。この様子を「群才彙進し、諸職其人を得たり。積年因習の弊風是において將一洗せんとす」と『防長回天史』は記していて、優秀な人材を登用し「藩政の総合的な改革」に藩を挙げて取り組む意気込みが伝わってくるようである。このあたりに同じ頃に改革を進めていた薩摩藩との違いを見ることが出来る。この頃の長州藩は、村田清風が「八万貫の大敵」と呼んだ多額の藩債と多くの家臣も借財(公・私とも)が嵩んで困窮状態にあったのである。結果として御用商人と一部の役人が実権を握っている有様であった。こうした現状に対して、清風は改革の実施にあたって「破綻した藩の財政状況」の現状を藩士・領民に公開して「挙潘一致の協力」を求め、国産会所の専売制下にあった藍の統制を撤廃し、綿・木綿織の自由売買を認め、さらに櫨・蠟の統制を弛めて商品生産者的農民の要求に応じたのであった。藩が抱えていた膨大な負債は、無利息元金据え置き・元金据え置き利払い・年賦償還などの方法に因って改善に向かい、藩士や農民の協力によって藩債は最終的に償還される。ここまでは改革は順調に進められたが、困窮した藩士の借財を救済すべく実施した「三十七カ年皆済仕法」の実施を発令したことから、藩士に貸付けの銀の回収が三十七カ年も延期されることから、商人資本と反対派は猛烈な反対運動を展開した。薩摩藩程でないにせよ、この頃の各藩は大なり小なり藩財政が「火の車」状態であった。この傾向は江戸中期の宝暦年間(一七五一~六三)から顕著になり、肥後熊本の細川重賢や出羽米沢の上杉鷹山らが苦心して立て直し、長州藩も同様であった。清風の実施した政策の柱は「四白政策」と言われる「長州の特産物」を潘営の形で督励・育成し、一方では質素倹約による「支出の削減化」を図った。さらに「藩営の商社」ともいうべき「下関の越荷方」の拡大を実施した事である。北前船に代表される、大坂への各国の特産品を一時保管して相場を見極めて、上方の価格が高騰した時にそれを輸送して売りさばくという金融政策でもあった。これが功を奏して「馬関(下関)」は経済的な要衝として、潘をあげて重要な役割を担うことになる。こうした、一種の倉庫業の営業開設には相当の多額な資金が先行投資されなければならないが、ここが長州藩の特異なところであって、実は江戸中期からの「撫育金」という一般会計と分離した貯蓄がなされていたのである。この撫育金は「宝暦の改革」を主導した八代藩主、「毛利重就」によって「宝暦検地」が行われ、四万一千石の増額となったのを、財源に設置されたもので、藩の一般会計から独立したものであった。

170425義なくば立たず村田清風


長州藩の因習とは藩の役人と結託して暴利をむさぼる特権商人の跋扈する実態を意味していた。清風はこうしたことのしわ寄せが百姓をして忍耐の限界から「天保の大一揆」となったことを見抜いていたのであった。そうであるから「抑商主義」を思い切って導入し、一方では藩営の事業を督励して「藩庫の潤い」を促進させる政策を採用したのである。しかし、これをマクロ的にみると幕藩体制の保全・維持政策の努力であったということもできる。武士の経済的困窮を救うべく、清風の建策として発令された「三十七カ年皆済仕法」は、既存の利益を確保しようとしていた有力商人と、清風に対峙していた一派の反発を招き村田は退陣を余儀なくされた。弘化二(一八四五)年のことであった。しかし、彼の私心なき考えは後輩の周布政之助や吉田松陰に受けつがれ、幕末の最終段階になって高杉晋作の活躍と云う藩内抗争の勝利の伏線へと連なって行くのである。このことは長州藩内では「革新派と俗論派」とに区分けされるが、これは勝利した側の呼称である。村田清風に対峙していた「坪井九右衛門一派」(俗論派)は、清風の退陣と共に特権商人階級の擁護策を復活させる「公内借捌法」実施を断行するのであるが、間もなく多くの支持を失って退陣となる。この「公内借捌法」というのは、お上から借りた公借金は法によって無借とし、内借(内々で私的に借りた借金)も、お上の手により立て替え払いとしてやり、これも無借とするものであった。何時の世も改革には既存の利益体制を保持したい一派とそれを解決しない限り改善の実現は困難として積極的に支持する一群とに分裂するのは、現代でも再三にわたって私達が見聞するところである。
村田清風の行った「天保の改革」は、「天保二年の大一揆」に淵源を持つと考えられるので、時に経済財政方面に力点が置かれた説明がなされるのは致し方ないが、商品経済との格闘に取り組んだのは事実であり、当時の潘は大幅な自治を保持していたことから一藩をどのように統治するかが問われたのであった。従って「国家は経済のみにあらず」で、この頃は西欧各国の艦船が日本の近海に出没を繰り返していた。その真意は時に「開国」や「通商要求」、あるいは「捕鯨船の救済策要請」や「漂流民の護送」等々の形をとったが、大きくは西欧資本主義社会の発展形態としての行動であった。特に清風の改革が進行中に「モリソン号事件」や「アヘン戦争」の情報に衝撃をうけ、海防問題が幕府のみならず政治問題化して来た。総じていえば、徳川幕府の統治策は「国内統治」に専念していれば事足りた事であったのである。そのためには「鎖国」という、徳川幕府の対外政策は大変便利に機能していたということが出来る。これが、国防意識が育たず西欧に大きく後れを取ることになったのは何とも皮肉なことであった。村田清風は早くに国防意識を持っていたことから、「軍事改革」や「洋学と医学」の取り入れ、人勢育成のための「明倫館の大増築」も行った。薩摩藩程に明確な改革の成果は得られなかったが、村田の考えは後継者に引き継がれて周布政之助や吉田松陰、高杉晋作らに引き継がれていくのである。

吉田松陰


吉田松陰は清風死去の報に接して「清風の伝記編纂」を小田村伊之助や友人の土屋䔥海に依頼しているのである。結果的には実現しなかったが、今日「山口県教育会」より上下二巻として「村田清風全集」が刊行されている。此の事を見ても、幕末長州間の活躍の基礎を作ったのは間違いなく村田清風の功績として評価することが出来る。長州藩「天保の改革」の出発時の潘債八万貫は安政年間に返済が完了しているので、長州も藩の改革は成功したと評価することが出来る。そして何よりも潘を挙げての殖産興業政策、とりわけ下関の「越荷方」は藩内の商品でなく他国の商品を活用することができ、そこに長年にわたる「撫育金」の備えがあったことが大きく貢献したものと思える。
この天保期の改革が成功したか否かが、幕末政局のカギとなったのであった。


『戊午の密勅』ー安政の大獄の引き金ー
【2017/03/02 16:31】 エッセイ

戊午の密勅】
安政戊午五年(1858)八月、孝明天皇は幕府が朝廷(天皇)に無断で「米国祖領事・ハリス」と調印をしたことに激しく怒った。幕府は同年六月九日、江戸湾上で「日米通商条約および貿易章程を締結」し、これを「宿継ぎ」という方法で朝廷に報告した。事後報告である。
これに対して孝明天皇は譲位を云い出すほどであった。それは、この年二月九日、幕府は老中・堀田正睦を勅許奏請の為に上京させて参内させた。然し、勅許は得られずに堀田は四月江戸に帰った。この時に朝廷は「条約調印は三家以下諸大名の意見を奏した後、再度の勅許を請うべし」と堀田に示した。この直後、大老に井伊直弼は反対派を押し切って勅許のないまま締結したといういきさつがあった。

井伊直弼吉田松陰安政の大獄150225橋本左内

こうしたことから、同年六月二十九日、事情説明の為、三家・大老のうち一人の上京を命じたが、幕府は老中間部詮勝を派遣すると返答したため、長幕関係は険悪となった。

こうした折、水戸・越前・薩摩の有志らは幕政改革のための勅諚を水戸藩に下すよう近衛忠煕・三条実万らに入説したことから、「関白九条尚忠」の裁可手続きを経なで「密勅」となって、八月八日に水戸藩に降下した。(原文には朝廷の最高責任者の関白・九条尚忠の名前はない)二日遅れて幕府宛にも勅諚は出されたが、大老井伊直弼は水戸藩に勅諚の返納を迫った。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、井伊暗殺の秘事が記されていたとされ、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。以下、原文を記す。

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右様之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國内之治亂如何ト更ニ深被悩叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之様ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家慎中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同様御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪状ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被悩宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候様被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、内憂有之候而者、殊更深被悩宸襟候。彼是國家之大事ニ候間、大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之様、德川御家ヲ扶助有之内ヲ整、外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候。早々可致商議勅諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣、鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


これを読み下してみる。
先般墨夷との假条約は、余儀なき次第にて、神奈川に於て調印し使節へ渡され候儀、猶又委細は間部下総守が上京に及ばれ言上の趣に候えども、先達て勅答に諸大名と衆議を聞かされたく仰せ出で候所、詮議も之無く、誠に以て皇國重大の儀を調印の後に言上とは大樹公(幕府・将軍)が叡慮のお伺いの趣意も相立たず、尤も勅答の次第に相背き軽率のお取計いは大樹公賢明の所、有志の心得如何と御不審に思召され候。右のような次第にて、蠻夷狄の者、暫くさし置いて今国内の治乱は如何と更に深く叡慮(天皇)を悩まし候。何卒公武の実情を尽くされ、御合体を永久安全の様にと偏に思召され候。三家或は大老が上京を仰せ出され候所、水戸尾張両家は慎んでこの趣を聞き及び、且つ又其の餘宗室(将軍家)の向きにも同様の御沙汰の由も聞かれたく候。右の者は何等の罪状に候や、計り難く候えども、将軍を補佐の面々は、今こそ外夷はこれからの入港も容易ならぬ時節で既に人心の帰向にも相拘るべく、傍ら宸襟を悩ませ候。かねて三家以下諸大名の衆議を尽くされたく仰せ出され候所、全く永世の安全は公武御合体にて、叡慮を安んじられ候よう思召され候儀、外慮の計の儀にもこれ無く、内憂これ有り候ては、殊更深く宸襟(天史の心)を悩ませ候。かれこれ国家の大事候あいだ、大老や閣老其の他、三家三卿と家門や列藩の外様と譜代ともども、一同群議の評定これ有べく誠忠の心を持って、篤と政道を正して、国内平和をいよいよ長く続かせて徳川家を援けるよう整えて外夷の侮りを受けぬよう思召られ候。早々と商議致すべく、この勅諚を下す。
安政五戊午年八月八日
近衛左大臣 鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


『江戸期の対外関係』を考証してみる
【2017/02/07 22:56】 エッセイ
「江戸時代中・後期」の対外関係

徳川幕府は、慶長から寛永年間にかけて、段階的に外国との関係を絞り込んだ。最終的に残ったのは「オランダ・清国・朝鮮・琉球」の四か国となった。
慶應大学の「高瀬弘一郎」教授が、「ローマ教皇庁」の本部に秘蔵されていた「宣教師たちの往復書簡」を解読して、「豊臣・徳川」の治世時代に、日本が交易国を絞り込んだのは正しい政策だったとの結果的な証明を学術的に成し遂げた。ザビエルに始まり、ワリニャーニまでが日本に来日して、『日本の征服』を企んでいたことを思うと、この時期は将に日本の危機だった。これを学術的に研究し、高度な歴史学者としての研究成果として後世に残る偉業を打ち立てたことに敬意を表したいと思う。

170205織田信長170205豊臣秀吉170205徳川家康



「仮面をかぶった宣教師たち」の本来の姿は、「日本をキリスト教」で「乗っ取る」ことが野望であったことが論証されたのである。豊臣秀吉は、おそらく「直感」でそれを感じ取って「日本国の危機」を結果的に救ったということになる。徳川幕府の要人達も、遅かれ早かれ、それらの危険性を「それとなく察知」していたのであろう。キリスト教の布教活動を通じて『日本侵略・征服』しようとしたイエズス会の宣教師たち。ポルトガルやスペインがカトリックであったのにくらべ、新興オランダ王国が残ったのは日本にとって幸運だっと言えるかもしれない。この頃『無敵艦隊』といわれたスペインを破ったイギリス王国。ここから近世ヨーロッパの勢力地図は大きく変わる。オランダやイギリスが『東インド会社』を拠点にして東洋進出を図ることになる。そのオランダも『ナポレオン戦争』では、併合の憂き目にあうが、徳川幕府(長崎奉行)に毎年提出される『オランダ風説書』に、自国の没落ぶりを知らせるはずがない。嘉永六年の「ペリー来航」までは、オランダのペースで日本の交易や西欧情報を独占的にしていたが、幕府は『オランダ風説書』に詳細な記述を求めることになる。即ち『特別風説書』である。そうして、文久二(1862)年幕府の『遣欧使節団』に随行した福澤諭吉が目にしたものが『オランダの西欧社会での没落・衰退ぶり』であった。世界の勢力地図の変遷ぶりを、日本は情報不足で知らなかったのであった。

170208ローマ教皇庁170208高瀬弘一郎教授170208高瀬弘一郎キリシタン時代の研究(左から、ローマ教皇庁、高瀬弘一郎教授日本学士院賞、キリシタン時代の研究)




豊臣秀吉自身が、誇大妄想を抱いて「明の征服」という、途方もない野望を思い立ったのであるから、歴史は面白い。「明王朝」こそ、迷惑千万な話であったことだろう。幸に「明王朝」はその末期であった。間もなく「女真族の清」に王朝が交代する。「漢民族の屈辱感」は大きかったのに違いない。「漢字」、「漢民族」と言われるように古代中国の王朝の基を築き、今日の中華人民共和国に至るまで連綿と続く「漢民族」という支那大陸の支配者の矜持は、今なお隣接國家のみならず、「チベット自治区」などを覇道で抑え込んでいる。古代の「漢王朝」以来、異民族支配は「元」と「清」であったから、漢民族の矜持は異民族の支配は屈辱以外の何物でもなかったに違いない。

この背景をなすものが『中華思想』である。現在の世界観からは笑止千万な世界意識であるが、「井の中の蛙」よろしく、当たり前の考え方であった。その「大国意識」が近年になって、経済的実力を背景に世界制覇の野望を抱くようになってきた。
現在の「中華人民共和国」は、東西南北の隣接國家との「国境問題」という火種を抱えている。おそらく、かつての「中華思想」が根強く残っているのであろう。「アヘン戦争」の屈辱を思い出して、第一段階としての「東洋の盟主」を国際社会に認知させようとの狙いが見え隠れするように思うのは「うがった見方」であろうか? 古代中国の「冊封体制」の再現を願っているのであろうか。

170208中華思想図170210中華思想図



徳川幕府が清国との関係において、属国的な冊封体制を願っていたことを「知ってか知らずか」その渦中に巻き込まれなかったのは結果的に幸いしたといえるだろう。徳川や清国が「狭い世界観」で世界認識を十分に持たなかったことが、世界の大勢に遅れてしまった。
日本の幕末は、「ペリーの来航」をもって開幕を告げるが、清国はアヘン戦争の反省を怠ったがために(中華思想がそれを妨げた?)、日本に先を越された。「西欧先進国」の何たるかを研究しなかった「つけ」がそこの現れたのである。

日本が、「国家的な危機感」で成し遂げた『明治維新』を清朝末期になって見習おうとしたのだが、それは既に遅かった。日本を属国的な程度にしか思っていなかった清国は、「日清戦争」に敗れて、「西欧先進国」の科学的思考や、技術、文明の遅れを感じたはずである。
現在もなお日本の二十倍の領土を支配し、十三億人とも言われる国民を擁する「中華人民共和国」は、なお十分に国際社会での活躍や役割を果し得ていない。「眠れる獅子」のままである。

現代の国際情勢から洞察出来る事は、「世界平和」の実現は遥かに遠いものなのである。大国のエゴイズムが、「均衡による平和」というビスマルクの「国際力学」の上に咲いた花の側面が消えない所以である。その実現を見ないうちに「核戦争」という自滅の現象が起きないと誰が確信を持って断言できようか。危険な時代はつづくのである。
現代の地球上の姿は、間一髪の抑止力の支えられての「平和」が保たれているに過ぎない。


薩摩藩天保の財政改革
【2017/01/11 10:13】 エッセイ
『調所広郷』① ―悲劇の薩摩藩財政改革者―

幕末維新期の立役者といえば、「薩摩藩島津家」と「長州藩毛利家」を誰もが異口同音に指を折ることに異論はないだろう。これに加えて「土佐藩」と「佐賀藩」を加えて「薩・長・土・肥」と併称されることが多いのもまた確かである。これは、幕末期から維新政府に多くの人材を輩出したことによるものです。明治十年代には「薩長」が新政府の要職を占めたことから「薩長藩閥政府」として批判の的になったのも、これまた多くの人に知られる所である。島津家も毛利家もともに「鎌倉初期」からの名族として、島津は近衛家との縁戚関係をはじめ、戦国時代には九州の覇者として、江戸期には外様大名でありながら将軍家の「御台所」を二人も輩出している。一方の毛利家は、そのルーツを公卿の「大江元」に持つ名門で、源実朝に近侍した。鎌倉幕府の創設に「勲功」ありとして、相模の国「毛利荘」(現在の厚木市)に大江広元の四男である「季光(すえみつ)」が土地を安堵されたことから毛利を称した名族と云ってよい。後に戦国時代になって毛利元就が活躍し中国地方の覇者となったが、島津氏同様に関ヶ原の戦いに敗れ、「外様大名」として生き残った。そうして六百年を超える武家社会の「歴史の風雪」に耐え、徳川末期に「天保の改革」を成功させて、名門復活とばかりに明治維新で両藩出身者が指導的地位に立ったのも何かの因縁を感じさせる。
さて、本稿の主人公である「調所笑左衛門広郷」であるが、彼の生誕は安永五(1776)年である。幕閣は十代将軍家治の治世で田沼意次と松平定信の確執となり、生誕の二年後には露国の使者が蝦夷地(厚岸)へ来航、松前藩に通商を要求するということが起きてようやく「鎖国体制」への変化の兆しが見え始める頃である。海外へ目を向ければ「アメリカ」の独立宣言が高らかに謳い上げられ、先輩格の英国に於ては近代市民社会が到来し、アダム・スミスの『国富論』が刊行されて「古典派経済学」が誕生し、市場経済秩序のメカニズムの解明・誕生を告げた年であった。フランスではルイ王朝が絶対王政を謳歌しつつも、『フランス大革命』勃発が二十年余の後に招来する頃である。


170110島津重豪と造士館170110調所広郷と島津斉興


東北の米沢藩では「興譲館」の再興がなり、薩摩藩に於ては有名な「宝暦の木曽川治水工事」が悪戦苦闘の末に終了し、総奉行の家老「平田靭負」の自刃をはじめ多くの犠牲と借財に苦しんでいた。八代藩主の島津重豪の豪快な散財の治世で借財は嵩む一方であった。そして一橋家の豊千代に嫁いだ三女の「茂姫」は、やがて家斉が十一代将軍となるので、重豪は「将軍外戚」として外様大名でありながら特別な地位を築くこととなった。将軍家との婚姻は莫大な経費が必要で、薩摩藩の財政は悪化の一方を辿ることになる。これらは重豪の欧化政策と相俟って財政を圧迫し続け、加えて重豪から斉宣、斉興と藩主が変わりながら芝、白金、高輪にそれぞれの藩邸・屋敷を抱えていた。藩主や前藩主が三名江戸に屋敷を構えるという、「金喰い虫」状態の珍事となった。この維持経費たるや莫大だったという。放漫財政の是正を期した斉宣の財政改革も、重豪の反撃に逢い「近思録崩れ」となって頓挫し、実態としては破産状態の藩財政であった。上方の豪商たちは「島津家」への貸し付けを渋り、七十七万石の雄藩は金策に追われ続けるありさまであった。幕末「薩摩藩の天保の財政改革」はこうした破綻状態の切羽詰まった状況の中で、藩政の実権を握っていた重豪からの強い要請から取り組むことになるのである。
薩摩藩内には、他藩にはない厳しい家臣団の身分階級があった。それは九階級にも分けられていた、武士の身分制度が「鎌倉以来」と言われる、長い統治の歴史の中で醸成されてきたもののようである。まずそれを列記してみると、①親族としての扱いになる御一門家(四家)を筆頭に、②一所持の一七家、③一所持格の四一家、④寄合の五四家、⑤寄合並の一〇家、⑥無格(山田家と亀山家)の二家、⑦小番の七一六家(他藩の馬廻り役相当)、⑧新番という二四家、⑨最下級の御小姓与(くみ)の三千九四家、という階級となっていた。その下に郷士、次に与力という身分階級の構成となっていた。今日の「平等思想」からは、考えられない複雑怪奇な身分制であって、これが固定的になっていた。そうして、更にこの下に各外城の座附士と足軽とがあった。これは、藩内では武士と言えない階級で、明治になってからも「卒族」として区別された。幕末長州藩における伊藤博文や山県有朋はこの階級とほぼ同じである。だから、伊藤も山県も明治新政府で顕官となっても、故郷に帰ると「あれは卒族」だからな!と、江戸期の階級でしか見られなくて、凱旋帰国などは思いもよらなかったのである。この他にどこの潘でも存在した高級な家臣の雇いになる「陪臣」が居たのであるから今日の感覚では理解が難しく、彼らは「またもの」として一段下級に見られていたから複雑極まりない身分階級で潘が統治されていたのである。それでも、多くの領民からすれば、「御小姓与」階級といえども立派な治者階級で選良とみられていたのであった。
薩摩藩で幕末期に活躍したのは西郷隆盛や大久保利通に代表される階級、それは「御小姓与」であった。何のことは無い、最下級の武士階級のレベルであったのです。川崎家に生れて「調所家」の養子となった「調所笑左衛門広郷」の、所属していた階級はこのように最下級の武士であった。なお、余談だが「調所」というのは、古代の地方官衙の税務担当係の職務から転じた名称を名乗ったようです。今日でいえば、税務署職員と言ったところでしょうか。
こうした最下級の武士の家柄から「家老」にまで出世したのは、偏に調所の人となりの能力や大殿様の信頼があったからに他ならない。現代風にいえば「三階級特進」を重ね合せたような立身出世としか言いようがないだろう。それは、ひとえに「調所広郷」の人となりに帰せられるべき能力と努力の結果、我儘な大殿様に信頼されたことへの「誠実無私」の職務精励にあったといえる。出世の階段は「茶坊主」という、実力者・重豪の期待に応えるべく己を空しくして尽くし続けた所からはじまる。その努力と辛抱は、今日では想像も出来ないほどの「辛苦」のなせる業であった。結果から記すと文政十一(1828)年、調所広郷の五十三才の時に「財政改革主任」を拝命したのであるが、ここに至るまでの努力は並大抵ではない。「重豪付奥茶道」となったのが、寛政十(1798)年で広郷が二十三才の時であるから三十年間の長きにわたって「精励」したことになります。この間に、「裏千家」の茶道修業から始まって、「茶道頭」、「小納戸」、「小納戸頭取・御用取次見習兼務」と累進して家格は「小番」へと昇格する。さらに「使番」、「町奉行」という栄職へと進む。
この「町奉行」と云うのは重要な職務であり、この頃から「人材としての調所広郷」が評価されてきたものといえる。そうして「小林地頭」、「側用人・側役勤、佐多地頭」と着実に要職を歴任して重豪や斉興の信頼を得ていく。この間に薩摩藩は「近思録崩れ」という藩内粛清を乗り越えて、調所は藩主側近として誠実に勤め上げるのであるが、その信頼は揺るがずに出世を遂げるのである。藩の財政赤字は、留まるところを知らずに膨れ上がり重豪は何人かの有能と思われる人物に財政改革を命じるが、その意を果せずについには辞退者が出る始末で困窮していた。そうして調所の五十三才の文政十一年、当時としては老齢の域に達した頃に運命の「財政改革主任」という命令(職務の拝命)となるのである。前置きが長くなったが、これ以降の調所広郷の大事業が始まる。ですから調所の「歴史的な大仕事」は、彼にとって晩年になってからの事となります。この二年後には年号は「天保」と改元され、徳川幕藩体制の維持は「内憂外患」状態となって試練の時を迎える。
調所を抜擢した重豪は、無理難題を命じる。五百万両の潘債を達成し、さらに五十万両の貯蓄をせよとの乱暴極まりない命令であった。当然調所は辞退するが、聞き入れない調所を切り殺さんばかりの剣幕であったと伝えられており、重豪も覚悟を決めた上での命令であったことが解かる。当時の銀主(貸金主)は、大半が上方の豪商であるが、それまでの実績は「返済しない薩摩藩」の評価はとどろいており、誰も借り入れの要請に耳を傾けなかった。だが金策が第一関門であり、散々の苦労の末に「出雲屋孫兵衛」が応諾してくれ、これとのつながりから「平野屋彦兵衛」、「炭屋彦五郎」、「炭屋安兵衛」、「近江屋半左衛門」の五人の新銀主が融資に応じてくれた。ここまで至るのに「決死の覚悟」だったといわれる。借金踏み倒しの常連のような、それまでの経緯が立ちはだかって、まさに「拝み倒し」というところであったろうと思われる。ただし大坂での正式取り決めが出来ず、江戸で最高実力者「重豪」が立ち合いでないと承諾しない。そうして「高輪邸書院」で重豪にお目見えしてそれは取り結ばれるが、此の時に条件が付いた。それは、改革の成功までは調所の担当替えをしないこと、さらに口約束でなく直筆の「朱印状」を書いた上でのことであった。これに対して重豪は、「調所が自分の意にかなわぬ時は代えるが、その場合はその方達に引き合いの上にて代える」という「枷」をはめられた上での取決めであった。天下の大藩・薩摩といえども、「面子」に拘って居られなかったのであった。時に文政十一(1828)年十一月二十一日の事であった。

これで、当座を凌ぐ目途がついたわけだが実際の改革は、まさに「これから」取り組むことになります。そうして調所は弘化元(1844)年に藩債完了と五十万両の備蓄報告を藩主の島津斉興にするのであるが、調所を抜擢して改革実行を命じた元藩主の「島津重豪」は、天保四(1833)年正月十五日に高輪藩邸において、当時では記録的な長寿の八十九才で大往生を遂げていた。したがって、改革の本丸は「道半ば」の時であった。以後、調所は重豪の孫、島津斉興藩主の下での改革事業を推進することになる。  以下、次号。


『子遠に語ぐ』
【2016/12/13 18:29】 エッセイ
子遠に語ぐ  
(己未文稿野山日記)  安政六年正月二十七日(一八五九)三十歳

安政六年正月、吉田松陰は二度目の野山獄に在った。前年の暮れ、潘府の『周布政之助』は、松陰の間部襲撃策に驚き、毛利藩を潰しかねないと判断して、厳囚させ、さらに野山獄に再度収監した。さらに、江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作は『安政の大獄』の指揮権発動を現実に見て、崛起を思い留めて時期尚早の手紙を出す。これを受け取った松陰は、『僕は忠義を為す積り、諸友は功業をなす積り』と憤った。そして、絶食に入るが、母や、叔父の玉木文之進の諫めで中止した。そして、やや気持ちが落ち着いて、信頼する入江杉蔵に村塾生の松陰評を書き綴っている。今日、松下村塾の主立った塾生の人となりを知る手掛かりとなる資料で貴重な文献である

念七日
家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等数密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。
夜、子遠獄に来り、船越清蔵.村田蔵六、萩に来るの事を談ず。
    ○
  子遠に語ぐ  正月念七夜
桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。独り汝は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。汝其れ之れを察せよ。防長絶えて真の尊攘の人なし、吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり。然らば則ち防長唯だ汝一人のみ。切に自ら軽んずるなかれ。
汝、国を去りて後は僧となるを妙と為す。一には決志の機あり、二には身を隠すの便あり、三には生活の計あり。且つ僧侶にして反って天朝を尊ぶことを知る者あり。禅学も亦心志を定むるに足るものあり、是れ亦一益なり。
兵は精なるを貴び、衆きを貴ばず、況んや有志の士は募りて求むべきものに非ざるなり。切に記せよ、伏見の事、万々敗蹶背ば即ち嘯集して賊となれ。頼政の事は汝固より自ら任ずる所なり。但し今日の時勢、宜しく佳賊となるべし、切に無頼の賊となるべからず。
徳川は万々扶持すべからず。徳川を扶持するは、聖上の大仁なり。然れども仁既に至らば則ち之れに継ぐに義を以てせざるを得ず、義尽くれば則ち仁其の中に在り。天祖の訓へに曰く、「宝祚の隆えまさんこと、天壌とともに窮りなし」と。此の言、天胤世々信奉すれば則ち天下太平なり。草莽の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あらんやと。
天朝の論、万一姑息に出でば、神州中興の理なし。吾れ将に中興の論を上らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日を待つ。
墨夷を屈せしむるの辞、吾が説を首と為す、聴かずんば則ち平象山の説之れを佐けん、猶ほ聴かずんば則ち干戈を用いて可なり。是れ亦仁至り義尽くるの論なり。汝識高く胆大、吾れの愛敬する所なり。恨むらくは才足らず、学尤も足らず、怨讎の気過当なり。是れ汝の病なり。必ず荘四を罪せんと欲するが如き、是れ過当の怨讎なり。然れども吾れの有隣を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。才は言ふに足らず、学に数種あり、礼楽制度は興王の規模にして、自ら其の人あり。戎馬甲兵は攘夷の籌略にして、自ら其の人あり。但だ、真心実意、自ら信じ自ら靖んず、道学の心法、真箇に味あり。

150420正装の吉田松陰150101高杉晋作160607山田顕義

吾れ曾て王陽明の伝習録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に当る。向に日孜に借るに洗心洞箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず、但だ其の学の真、往々吾が真と会ふのみ。今のせかい、老屋頽廈の如し。是れ人々の見る所なり。吾れは謂へらく、大風一たび興って其れをして転覆せしめ、然る後朽楹を代へ、敗椽を棄て、新材を雑へて再び之れを造らば、乃ち美観とならんと。諸友は其の老且つ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。是れ吾れを視て異端怪物と為して之れを疎外する所以なり。汝に非ずんば安んぞ吾が心を知らん。
是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷豈に其れ容易ならんや。須らく中大兄と鎌足と南淵(みなみふち)先生に往来し、路上に如何の話を為せしかを思量すべし。(余書してここに至り覚えず泣(なみだ)下る。自ら其の由る所を知らざるなり)吾れ本と愚物なり、然れども吾が家の家風学術、篤厚真実を以て世々相伝ふ。ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚の君子なり。之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。
旧友は前書に略ぼ之れを言へり。新知の暢夫、識見気魄、他人及ぶなし。但だ一暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。然れども両暢夫相抗すれば必ず一暢夫の斃るる者あらん。是れ亦憂ふべきなり。此の間の苦心、吾れ桂と一言せしに、桂も之れを首肯せり。
無逸の識見は暢夫に彷彿す。但だ些の才あり。是れ大いにその気魄を害す。気魄一たび衰へば識見亦昏む、歎ずべし歎ずべし。諷するに老屋の説を以てせば、或いは一開発あらんか。抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず。但し前日絶粒の事の如き、八十.子楫.無咎、各々諌書あり。その懇惻は則ち感ずべし、然れども吾れを罵りて短慮と為し無益と為し、人の笑ひを胎すと為すこと、乃ち士毅と雖も論じ得て透らず。試みに之れをして無逸に語らしめば、無逸は則ち微笑せんのみ。固より吾れの慮短きに非ざるも、才の長ぜざるを知ればなり。嗚呼、鐘子期に遇ひ難しとは其れ唯だ無逸か。実甫の才は縦横無碍なり。
暢夫は陽頑、無逸は陰頑、皆人の駕御を受けず、高等の人物なり。実甫は高からざるに非ず、且つ切直人に逼り、度量亦窄し。然れども自ら人に愛せらるるは潔烈の操、之れを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬の利ある、当に此の三人を推すべし。
野山獄小久坂玄瑞吉田松陰と松下村塾25.3.28
八十は勇あり智あり、誠実人に過ぐ。所謂、布帛栗米なり、適くとして用ひられざるはなし。其の才は実甫に及ばず、其の識は暢夫に及ばず、而れども其の人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し。吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し。八十父母に事へて極めて孝、余未だ責むるに国事を持ってすべからざるなり。子楫は鋭邁俊爽なり。然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。退転の勢一旦萌すことあらば、駟馬もこれに及ばず。吾れ平生最も愛する所は子楫.無逸なり。無逸は吾れ其の才敏なるを愛し、子楫は吾れ其の気鋭なるを愛す。皆その己れに似たるを愛す、皆吾が過ちなり。無逸の頑は吾れ或いは平にすること能はざらん。是れ其の敬すべき処なり。子楫は其の頑なし。然れども気自ら恃むべし。且つ子楫は母賢に弟友なり、以て家を託するに足る。是れ宜しく責むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤の語なり、汝切に記せよ。福原は外優柔に似て而も智を以て之れを足す。子楫の鋭気愛すべきに如かず。然れども其の頑固自ら是とする処は子楫及ばざるなり。
無窮は才あり気あり。一奇男子なり。無逸の識見に及ばざれども、而も之れに勝るに似たり。無咎は更に二無に及ばず、而れども一味の着実あり、又気魄あり、大節に臨みて、亦苟も生きざるなり。
子徳は満家俗論にして、恐らくは自ら持すること能はざらん。然れどもその正直)慷慨未だ必ずしも摩滅せず、則ち亦時ありて発せんのみ。子大は俗論中に在りて、顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。亦些の頑骨あり、愛すべし。日孜は事に臨みて驚かず、少年中稀覯の男子なり。吾れ屢々之れを試む。天野は鑒識あり、其の日孜を取ること頗る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ちこれを信ぜず。
天野は奇識あり、人を視ること虫の如く、其の言語往々吾れをして驚服せしむ。誠に李卓吾の如きを得て之れを師とせしめば、一世の高人物たらんも、恐らくは遂に自ら是とし、其の非を知らずして死せん。吾が交友中に於いて暢夫.日孜を除くの外は其の意に当る者なし。噫、奇識なるかな。
嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患ふ。大識見大才気き)の人を待ちて、群材始めて之れが用を為す。吾が交友中、言ふに足る者なし。汝の知る所は仙吉.直八.松介.伝之輔.小助.太郎。太郎.松介の才、直八.小助の気、伝之輔の勇敢にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。然れども大識見大才の如き、恐らくは亦ここに在らず。天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ。

解 説
この書簡については、まず二のことを指摘しておきたい。その一は、書き出しの言葉についてである。それをみるといかにも桂小五郎の言をもっともなこととしているかのようでありながら、必ずしもそうでなく桂が叔父玉木文之進を使って松陰と諸友との交信を止めさせようとしたやり方に憤慨している。その二は「吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり」とあって、松陰自身も尊攘を口にする資格がないと言っているが、この頃尊攘についての自分の考え方なり手段なりに何か誤りがあるのではないかと反省させられるところがあったためであろうか。実際にはいよいよ尊攘の念をかき立てて、その実現をその杉蔵に期待しているのがこの書簡である。
尊攘実現のためには、今は僧侶になって機会を待つべきだと示唆するとともに、共に決起して欲しい村塾出身者について、その人物特性を杉蔵に知らせ、立ち上がる時の用に供している。


【週刊現代】掲載の私の書斎
【2016/12/02 12:49】 エッセイ
「書斎のある家への憧れ」

私の生家は群馬の赤城山麓で、八人家族の小農家だった。夕食時、病身の父が「丸いちゃぶ台」の定位置に座り、幼い私達に中国の出征談を毎日聞かせてくれた。夕食時が「勉強兼家庭教育の場」でもあった。後に私と娘が「日本史」の教師となったのもこんなところに起因しているかもしれない。なぜか、今もその光景が懐かしく思い出される。私が大学生の頃「若者たち」という映画があった。それを見た時、私の家がモデルだったのではないかと本気で考えた。
 年長の兄姉が、必死に働いて家計を支えていた。ですから、兄姉は高校進学が経済的事情で出来なかった。私も十五才の中卒で上京して会社で働きながら夜間高校に通った。

161202私の書斎 知行合一写真150420正装の吉田松陰



そして、仕事と勉強と貯蓄に励み、自分で学費を全て工面して大学進学をした。必死に家計を支える兄姉に対しては、自然と家庭内では長幼の序が形成されていた。だから、兄姉は全員仲睦まじかった。そうした反面、いつもヨーモアの交歓があり、貧しいながらも笑いの絶えない家だった。こんな私の家は、まさしく「憩いと教育の場」であった。兄姉が競って新聞小説の感想談義をしていた。こうした家庭に育った私は、「読書や音楽を楽しめる書斎のある家」に住みたいとの強い願いがあった。
この願いは早くに実現し、私は二十代で自宅を購入して隣家に気遣う子育てをしないようにした。数年後に娘から「友達を連れて来られる家」が欲しいといわれて、もう一度踏ん張り現在の家を購入した。ここで念願の書斎のある部屋を持った。自分専用の書斎で、所せましと本が並んでいる。吉田松陰の研究をしていることから「知行合一」を書家に注文して書いてもらい、向かい側に「大学の恩師」の写真とともに額に入れて飾ってある。

161202難波田先生 私の書斎161202早稲田大学大隈講堂


恩師は『日本の経済学を築いた五十人』に登場する先生である。
人は生涯に三度家を購入すると念願の家に住めるといわれるそうだが、私は二度である。多少の満たされないことはあるが、それはそれでよしとしている。現在「さいたま市」に住んでいるが、それは実家に帰省するのに便利であること、子供の通学は自宅からと願っていた結果である。この両方ともに条件が満たせて、子供は小学校から大学まで自宅から通えた。新宿まで電車で三十分の距離だが、近隣には生産緑地としての田畑が残り、埼玉県でも指折りの由緒ある公園もあって、四季それぞれの風景が愉しめる「我が家」です。
夕暮れには「さいたま新都心」の夜景が美しく眺められる。読書後の日課にしている散歩中もそれを楽しめる、とても良い環境の中で、念願の「書斎のある家」での「楽しい我が家」の生活を満喫しています。


このエッセイは、私が「大和ハウス・石橋信夫記念館文化フォーラム」に出演したことが機縁となって依頼が来ました。
大和ハウスの関連からの依頼でしたので『家』に関する話題と、個人的な思いを綴ってくださいとのことでした。
『若者たち』の映画を見たときは、本当に不思議な気持ちになりました。
田中邦衛役に相当するのが、私の長兄でした。役柄とイメージがダブって懐かしいやら、感動の涙が自然と出てきたものだった。
末弟が早稲田大学を受験するのも全く同じで、『ボン・大学へ行け!』 と田中邦衛が、無い学資を何とかすると決心するくだりは、私の人生と重なって、他人事には思えなかった。我が家の再現をした映画のように錯覚したものです。
貧しいながらも、兄弟が力を合わせて生き抜いていく素晴らしい映画でした。我が家にはそのDVDが購入してあります。


『尊王思想の源流』を訪ねて
【2016/11/07 23:01】 エッセイ
『宝暦・明和事件』を調べよう!

平成28年11月19日から、大東文化大学オープンカレッジで「明治維新への道」と題して5回の講座を行うことになった。幕末の「尊王攘夷」思想の淵源を辿ってみると、「ペリー来航」の100年前に、武家政治への極めて日本的な思想である、「尊王思想」の弾圧事件があった。これを一般的には「宝暦・明和事件」と名付けて、歴史書でも簡単に触れるにとどまることが多い。だが、実は、幕府の崩壊過程は四方八方からその兆しを見せていた。「覇道」による武家政治であっただけに、250年余り続いた中で、埋もれがちであった「事件」を見直す意味で、この吉川弘文館の「宝暦・明和事件」の解説は貴重な解説をしてくれる。その全文を転記してみます。

161107山県大弐1161107竹内式部1161107藤井右門の石碑1 京都(左から、山県大弐、竹内式部、藤井右門の関連写真です)



江戸時代中期の尊王論弾圧事件として一括して論じられることがあるが、両者は本来かかわりのないものである。
まず、宝暦事件であるが、これは、朱子学者にして神道家であった山崎闇斎を学祖とする崎門派の松岡仲良や玉木葦斎(正英)に儒学や神道を学んだ竹内式部が京都朝廷における少壮の公卿たちに影響を与えたことから、当時「神道長上」として全国の神社を支配し、神職の任免・補填を司っていた吉田家が、式部を通じて垂加流の神道が公家衆の間に浸透することを蔑視したこと、天皇の近習たちの間での相互の確執、さらに若い桃園天皇に垂加流の神書の講読をすることに関しての、正親町三条公積(きんつむ)・西洞院(にしのとういん)時名ら少壮公卿と関白近衛内前ら老臣たちとの意見の対立、などから起った事件である。事件は二回あった。第一回目は、宝暦六(1756)年京中洛外で式部が公卿衆に軍学武術を指南しているとの風聞があり、そのため式部が同年十二月京都町奉行所に呼び出されて取調を受けた事件であるが、これは事実無根ということで容易に解決した。第二回目は、それから約一年後、式部に入門する公卿が増加したことに加えて、近習衆が桃園天皇に対して垂加流による「日本書紀」神代巻の講釈を積極的に進講したため、関白ら朝廷の重臣たちが、幕府を憚ってこれを抑圧し、式部門人の公卿達の大量処分を幕府に無断で断行するとともに、その思想的元凶と見做されていた式部を京都所司代に告発し、そのため一年近い取り調べの結果、同年九月に式部が重追放となった事件である。

他方、明和事件はそれから八年後の明和三(1766)年八月、江戸で起こった。江戸で軍学教授をしていた元甲府与力山県大弐の門人に上州小幡藩の家老吉田玄番なる者があり、この玄番が同藩用人相原郡大夫の私怨により藩から処罰されると、それが大弐との交際の故であるとの噂が立ち、浪人桃井久馬・町医師宮沢準曹らは禍が我が身に及ぶことを怖れて、大弐を幕府に対する謀反の企てありとの理由で、その交友関係を記して、同年壱二月老中に直訴するとともに町奉行所に出訴した。そのため幕府は、大弐及び大弐方に寄宿していた浪人藤井右門を捕縛し、八カ月に及ぶ取り調べの結果、両者ともに謀反の事実はないが、その言動に幕府の忌避にふれることがあったことが不敬であるとの理由で、大弐は死罪、右門は獄門という極刑を受け、また竹内式部も、本来この事件とは何のかかわりもなかったが、前述の重追放中の身京都に立ち入ったのは不都合であるとの理由で八丈島へ遠島となった(式部は途中の三宅島で病没)。これを明和事件と云う。

この二つの事件は、それぞれ京都朝廷内部における老臣と少壮公卿との対立、江戸における浪人の舌禍事件と云う相互に全くかかわりのない事件であり、また彼らの抱懐していた思想それ自体が裁きの対象とされたわけではなかったが、現象の背後にある思想面について見ると共通する点も少なからず存在する。竹内式部は、宝暦八年京都奉行所における取調べにおいて、「経書之趣」であるとしつつも「天下無道則礼楽征伐従諸侯出、従諸侯出則十世少不衰」といい、あるいはまた当代を「危キ天下」と言い表して取調べ役人たちの耳目を動かし、門人の公卿たちに対しては「於日本天子程貴き御身柄無之候に、将軍を貴と申儀は人々も存知、天子を(の)貴を不存候、(中略)これは天子御代々不足御学問御不徳、臣下関白已下何も非器無才故之儀ニ候、天子より諸臣一等ニ学問を励み、五常之道備候得ハ、天下之万民皆服其徳而、天子ニ心を寄せ、自然と将軍も天下之政統を被返上候様ニ相成候儀ハ必定、実ニ如指掌、公家之天下ニ相成候」と教授していたという。

他方山県大弐も、政治の要諦は礼楽制度を建てることであり、礼楽制度は天子から出てこそ道であるとの立場から、鎌倉以降の武家政治を厳しく批判するとともに、「苟も害を天下になすものは、国君といへども必ずこれを罰し、克たざれば則ち兵を挙げてこれを討つ、故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つ、また皆その大なるものなり」「」
たとひその群下にあるも、善くこれを用ひてその害を除き、而してその志その利を興すにあれば、則ち放伐もまた且つ以て仁となす、他なし、民と志を同じうすればなりと放伐のじんなるゆえんを「民志」との一致に帰することによって放伐を肯定した。
この式部や大弐の思想は、それぞれ闇斎学派の神道論、徂徠学派の政治思想に淵源するものであり、両者の思想の性格も大きく異なるものではあったが、第一に、ともに「天に二日なく、地に二王なし」とし、礼楽征伐は天子よりでることが道に正統なる所以であるとする点で儒教の原理主義的立場に立脚していること、第二に、そのような儒教的正統性の立場から、一方では、天子の君徳の培養と朝臣の奮起を促し、他方では、武家政治の批判と放伐論が、それぞれ朝廷の衰微や幕藩体制の政治的現実への批判を媒介にして主張されていること、第三に、それらの主張が、下級の武士や神官・医師などの民間の知識人層からなされたこと、等々は注目すべき新しい動向であった。

江戸時代の初期の儒学者たちは、確立した、幕府を頂点とする政治的現実に即して儒学を読み直し、それに相応しい政治思想を形象化したが、式部や大弐らは、十八世紀後半、幕藩支配体制の動揺を眼前にしつつ、儒教の原理主義的立場から当時の政治的現実を厳しく批判する契機をつかみつつあったといえる。二つの事件そのものは、いずれも関係者が処罰されることで「政治的」には一応の決着を見ることになるが、このような「思想的」伏流が、寛政期になると、一方では尊号問題など朝廷と幕府の緊張関係を生み出し、他方では尊王思想を包懐した高山彦九郎らの全国行脚に継承されていくことになる。(出典:吉川弘文館『国史大辞典』、本郷隆盛著)

長い説明文だが、丁寧に読むと幕末の尊王攘夷の考え方が解ってきます。吉田松陰が安政三年に書いた『松下村塾記』で、「今、天下は如何なる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて華夷の瓣を合わせて又之を失ふ」と力説した意味がよく解るのである。松陰は、極めて日本人的な、あまりにも日本的な発想をしていたかがこれで解るのである。松陰の思想は、儒学、孟子、水戸学、国学、等々の思想が混然一体となって形成されている。武家政権が日本にとって、本来的な統治体制出なかったことを洞察しているのである。ですから、軽々に「天皇制」を論ずるのでなく、神国思想から説き起こされた長い日本の固有思想にも続いたものとして理解されなければならない。この解説文にあるように「放伐論」が説かれているのは、松陰が孟子から受けた思想的影響の大きさに思いを致さなければならないと思われる。

『高杉晋作への信頼』の書簡
【2016/10/10 21:54】 エッセイ
『高杉晋作宛て松陰書簡』

吉田松陰は、その短い生涯で大変な数量の書簡を遺して(書いて)いる、その中で、幾つか松陰の松下村塾における有名な書簡の一つに、高杉晋作宛の「安政六年二月一五以前」がある。吉田松陰の人物眼の一端を知る上で貴重なものであるので、全集から転記して見る。愛弟子の高杉宛に書かれた、貴重な書簡である。松陰の人となりを理解に大変に有用です。

150101高杉晋作150420正装の吉田松陰



高杉晋作宛 安政六年二月一五以前 松陰在野山獄 高杉在江戸
此の書には御答は御無用。只だ屈平の詩一見したとのみ小田村か愚兄か其の外久坂なりかに御申し贈り下され度く候。
先日は御書成し下され候虚言々服鬱問休まず候處、今日また家兄より承り候へば口羽にも御申越され候由、覚えず感泣。さりながら、天子は不世出の聖王、君公の賢明は申すに及ばず、御當年の御勧政は恐れながら御世始め已來稀有の御事なるに、有司德意を奉ずること能はず今日の次第に成り降り、此の時を失しては三四十年も只々此くの如きのみ。誠に恐れ多き事に候へども萬々一も近年の内公御遁世遊ばされ候はば、吾が輩の忠竭すべき所なし。小子今公樣への忠心止む能はざるは抑々故あり。小子幼年より深く御知遇を蒙り、往年は御前會にも屢々召出され親しく德音を伏聽仕り、一々肺肝に徹し候。其の後感慨已む能はざる事之れあり亡命仕り候處、後にさる人より承り候處、其の節斯様の事他言必ず無用君公國の寶を失うたとの御意あり由。
一乳臭國に何の損益ありてかく難有く仰せられ候事か、何とも誠に忝く候へども、小生に於ては感激身に餘り此の世に生きては居られ申さず候。墨夷行思ひ立ち候處、夫れも遂げず死にもせず、剰へ昨年已來又々恩旨を蒙り候事ぞもあり、昨年より屹度志を立て當御在國中には是非一死を遂げ、積る重罪の申譯仕るべくと存じ候處、又死にそこなひ野山屋敷にて三度の食事衣服襟枕等事を缺き申さず、最早御発駕も近く候へども死すべき折も之れなし。加之、世間は俗論の眞晝にて一事の快と称すべきものなし。風聞には至尊も御禅位の叡慮など、誠に鳴く鳥もさく花も涙の種ならざるはなし。端なく屈平の往時思ひ起し頻りに死に度く相成り食を絶ち死を待ち候積りの處、二日にも滿たざるに又由ありて食に復し、靈均の九原に笑ひて死を顧みざる事止みに致し候。さりながら君公は遠からず御發駕あるべし。國是は立たず、御發駕相済み候へば國相府の手合いは肩の任を卸したる心地にてぐっすり寐込むなり。大臣の般楽台敖いかんいかん。御着府の上は長井・井上・周布などの俊才相連結してさぞ巧みなる處置あるべし。來る御歸城の上は地・江戸合體、國事一定すべし。其の後の御参府は恐れながら期し難きなり。天朝の論は別にして吾が藩の事を案ずるに、今公の為めに死なんとすれば當御在國中より他なし。墨今公の恩遇を蒙り當御在國中に得死に申さず、天地に辜負し、父母に辜負す。かく申す事老兄には嘸々不満なるべし。然れども此の心事語るべき人なし。岸獄獨座、諸友を回顧するに、老兄ならでは聞いて呉れる人なし。故に一言を此の世に留むるなり。哀し哀し。平生無二の知己なる來原・桂さへ僕が心事を知る能はず、何ぞその他を望まんや。哀し哀し。今後才略功業の人は出來もしよう、忠義の種は最早絶滅と思召さるべく候。
晁錯・朱雲・屈原・楊繼盛・翟儀・徐敬業・燕太子丹・田光・侯嬴、此の人々は勿體なき人樣なり。
子遠が心事は僕と一般かと察し候。其の他は青年の人なれば留めて足下輩の用に供すべし。僕は君に負き父に負くの人、死を求むべきの人、萬事念なし。但だ朋友の情甚だ深し、良朋親友寝寐も忘るべからず。此の念頭だに絶ち候へば眞の槁灰死木となることを得らるるなり。天野清三郎、此の生昨年以來一事も吾が説に同意せず。奇見異識他日必ず異人たあん。此の人深く老兄に服す、其の他一人も服する人なし。僕遂に其の才を竭す能はず。足下幸に之れを心に記せよ。

161010毛利敬親161010屈原


屈原
楚國無謀却秦。宗臣未死生憂辰。漁父何知行唫意。枯形顦色屈靈均。
すなどりのささやくきけば思ふなり澤邊に迷ふ人の心を。
古人云はく、「泣かんと欲すれば婦人に近し」と。信なるかな。今七ツ時、足下書を口羽に寄せられ候事を承り感泣休まず。然れども泣けば他囚の笑はんことを恥ぢ、病と称し被を擁し打伏し、夜食後又此の書を作る。
中谷・久坂も山口まで歸り候由なれど未だ歸萩せず、仮令歸萩したりとて喜ぶべき事もなし。人間の楽しみ盡きたり。死生の年忘れたり。

野山獄小木戸孝允26.02.01


余獄に赴くの前二夕、桂小五郎至る。小五郎は僕無二の知己なり。話中左の問答あり。僕今叙して以て足下に遺る。
寅云ふ、「暢夫如何」。桂云はく、「俊邁の少年なり、惜しむらくは少しく頑質あり、後来來の人言を容れざらんことを恐る。老兄何ぞ今に及んで一言せざる、必ず益あるなり」と。寅云ふ、「然り、僕も亦之れを思ふ。但だ暢夫は十年遊方を期す。僕心に書信を絶ち其の為す所に任せんと期す。暢夫後必ず成るあるなり。今妄りに其の頑質を矯めば、人と成らざらん。暢夫他年成るあらば、假令人言を容れずとも必ず其の言を棄てざらん。十年の後、僕或は為すあらば、必ず之れを暢夫に謀らん、必ず吾れに負かじ。二人相濟へば、以て大過なかるべきなり」と。
桂之れを肯んず。
此の談今僕既に自ら負く。桂の苦心故老兄に通ずるなり。その當否は僕知らず。然れども桂は厚情の人物なり。此の節諸同志と絶交せよと、桂の言なるを以て勉強して之れを守るなり。深愛の無逸にすら一書を通ぜず。小田村と子遠とは由ありて書を通ず。

※ 松陰の高杉への愛情と(師として)、甘え(信頼する弟子へ)とが一緒に伝わってくる書簡である。高杉が涙を溜めながら読んだであろうことは、容易に想像がつく。尊敬する恩師への「思い」を強くしたに違いない、心の籠った書簡だと思う。


坂崎紫瀾と汗血千里駒
【2016/09/28 18:22】 エッセイ
「坂崎紫瀾」と『汗血千里駒』

幕末の「坂本龍馬」を最初に小説として書いた坂崎紫瀾(本名斌:サカン)の『汗血千里駒』は、明治十六年(一八八三)の一月から高知の『土陽新聞』から掲載されて評判を呼んだものである。一般に「坂本龍馬」のイメージはこの「坂崎紫瀾」の「汗血千里駒」がモデルのようになっている。学術的な研究者による『坂本龍馬伝』はほとんど書かれてなく、その原因は「史料」が少ないことから、人物像の再現が難しいことによると思われる。現存する史料は、大半が「書簡」であり、参考文献として『坂本龍馬関係文書』や『坂本龍馬手帳摘要』くらいしかないのである。実際に龍馬が書いた『手紙』が何通あるか、まだ未発見のものがあるようである。だが、坂本龍馬の関連は多くの関係人物や関連文書に登場するので、それに依拠して龍馬像を創り上げて行くのが普通の手法である。『人脈図』を見ると、非常に幅が広く「外様の軽格としての譲り受け郷士」としては極めて異彩を放っている。幕府の要人(松平春嶽・大久保一翁・勝海舟)との接点があることが特徴的である。反面、出身潘である「土佐藩」では、「山内容堂」と直接面識がなかったようで、容堂は間接的に知っていたに過ぎない。むしろ「軽輩ゆえ相手にしない」という態度である。こうした「身分制」がまかり通っていた時代であるだけに、「土佐藩の旧態依然たる制度や考え方」に嫌気がさしたのである。だから、「脱藩」という当時の武士(下級)の厳しい掟も無視するかのように土佐藩を捨てたのであった。そうしたこともあってか、出身潘以外の人脈が多いのも坂本龍馬の特徴である。
160928汗血千里駒 本161004坂本龍馬 いきいき埼玉


復刻版の「解題」によると『千里を駈ける駿馬(参照「漢書、大宛国伝」)にも比すべき坂本龍馬の生涯を、実伝的小説として描きながら、そのなかに当時の明治・自由党の理想を挿入したもので、いわば実伝的政治小説といってよいものであるが、なかなかの傑作である。・・・・・・起承転結の巧みな作品構成である・・・・・・紫瀾はこの作品で、明治御一新を上士と下士・軽格との対立から把握し、明治御一新は、“天賦同等の感情に胸の炎(ほむら)を焦がしつつ其の門閥を憎み階級を軽んずる(第十八齣)”下士・軽格たちの、上士への抵抗、封建時代への反抗であったとみなし、軽格坂本龍馬を代表とする明治御一新へ向かっての大精神は、自由民権運動につながると考え、この自由党的思想性でもって、「汗血千里の駒」を支えようとした・・・・・・「汗血千里の駒」は実伝てき史実性と政治的主張性とを、その底辺に置いた、大衆的魅力のある小説となっているといえようが、とにかく当時大変な人気を呼んだ作品である。あたかも、昭和の御代に大人気を博した司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(昭和三七年六月二一から昭和四一年五月一九日、産経新聞夕刊連載・一三三五回)の明治版といえるかもしれない。』と説明されている。
明治十六年一月二十四日から連載され、同年三月三十日まで続き、以後三ヶ月間、作者の紫瀾が不敬罪で入獄したため中絶したのだが、明治十六年六月末出獄するや、七月十日から再び掲載をはじめ、同年九月二十七日完結した。

160928坂崎紫瀾

さて、坂本龍馬を天下に知らしめた『汗血千里駒』の政治小説を書いて人気を博した「坂崎紫瀾」についての人物説明は、国史大辞典(吉川弘文館)によれば、次のように記述されている。
一八五三~一九一三、明治時代の文筆家。名は謙次のち斌。号は紫瀾、別号鳴々(うう)道人・咄々道人。嘉永六年(一八五三)十一月十八日江戸鍛冶橋の土佐藩邸に生まれる。父耕雲(医を業とす)・母きさの次男。安政三年(一八五六)巧緻に帰り城下の廿代町に居住。致道館に学び十六才で同館の素読席句読師補助となる。明治三年(一八七〇)広島に遊学、ついで彦根の学校教官となったが、六年上京してニコライ塾に学び、七年愛国公党に加わる。同八年司法省に入り松本裁判所に赴任したが辞職後「松本新聞」主筆となる。同十三年「高知新聞」編集長となり自由民権派の論客として活躍する。政談演説禁止で東洋一派民権講釈一座を組織し馬鹿林鈍翁と名乗り民権運動を展開し『土陽新聞』『自由燈』のほか諸新聞に論陣をはった。大正元年(一九一二)維新史料編纂事務局に入ったが同二年二月十七日、東京市牛込区新小川町の自宅で没す。六十一才。墓は青山墓地。著書に『汗血千里駒』『維新土佐勤王史』『鯨海酔侯』などがある。

因みに、「坂崎紫瀾」の「政談演説禁止」によって、『土陽新聞』で三か月間の連載中断となったのは、「解題」によると『不敬罪』で入獄したことになっているという。それは、馬鹿林一座の民権講釈で坂崎紫瀾が『天子ハ人民ヨリ税ヲ絞リテ独リ安座ス、税ヲ取リテ上座ニ位スルハ天子ト私トノ二人ナリ』と述べた事によったものである。明治天皇制国家に対する、露骨な批判となる文言が明治新政府の受け入れるところとならなかったというわけである。




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