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文久二年の『土佐・尊皇攘夷思想』
【2018/03/03 10:01】 エッセイ
『幕末・土佐の三偉人』

JR高知駅を降りて南口を出ると、ロータリー右側に坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の大きな銅像が並んで立っている。
文久元年に結成された『土佐勤皇党』の代表的志士・三人とでも云うべきか。
結成時の領袖は武市半平太で、龍馬も慎太郎も名を連ねている。

161011武市半平太161004坂本龍馬 いきいき埼玉161011中岡慎太郎

その結成文に曰く、
『堂々たる神州戎狄の辱をうけ、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く嘆き玉ふ。
然れども久しく治れる御代の因循萎惰といふ俗に習ひて、独りも此心を振ひ挙げて、皇國の禍を攘ふ人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、却てその為に罪を得玉ひぬ。
斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落人玉ひぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと、況てや皇國の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。
彼の大和魂を奮ひ起し、異性兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に碑補せんとす。
錦旗若し一とたび揚らば、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患者をも払はんとす。
左すれば此中に私もて、何にかくに争ふものあらば、神の怒り罪し給ふをもまたで、人々寄つどひて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書きしるし、おさめ置ぬ。』
文久元年辛酉八月  武市半平太小楯(以下百九十一名連署血判)。
『中公新書・武市半平太、入交好脩著』

この盟約書は文久元年、江戸において武市半平太・大石彌太郎によって起草され、それを武市が土佐に持ち帰り勤皇の士を募ろうとしたものである。
そして翌年の文久二年正月に武市は長州へ坂本龍馬に親書を持たせて派遣した。
この時長州で応対したのが久坂玄瑞であった。
龍馬はここで久坂から時勢観を聞かされ、志士として活動を始める(脱藩)ことになるのである。
その久坂が語った内容とは、次の吉田松陰の『草莽崛起論』の何たるかを語ってあまりあるのである。
曰く、
「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合の外にはとても策これなき事と、私共同志中、申し合わせ居り候事に御座候。
失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」と尊攘の「大義」実現には、藩の滅亡も苦しからずといい、幕府や藩を否定しようとする考えにまで進んでいた。
『中公文庫・日本の歴史19、小西四郎』

これを、三年前の安政六年四月に吉田松陰が、佐久間象山の甥・北山安世に宛てた書簡と併記してみると吉田松陰の時勢観がよくわかり、長州藩の指導的思想となっていたことが解る。
曰く、
『今の幕府も諸侯も最早酔人なれば、扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にしても忘るる方なし。
草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州に大功ある人と云うべし』と。

つまり、龍馬、武市、中岡もここから考えが出発しているのである。
官僚化してしまった幕府を構成している者、諸藩の大名も幕府権力に媚びていて、陋習から抜け出せないまま己の保守に汲々としている。朝廷にあっては、公卿の時勢への認識は全く態をなしていない。
このままでは外国の侵略を受けても、他人事の世界だと警鐘を鳴らしているのである。
吉田松陰が『明治維新の先覚者』と称えられる所以である。
この思想に触れた武市半平太が、すぐさま『土佐勤皇党』結成に向けて行動を開始したことが解るのである。


江戸初期の名君「池田光政」
【2018/01/31 11:13】 エッセイ
『池田光政』

江戸時代初期の名君、池田光政(1609―1682)は備前岡山藩主の藩祖として徳川政権で安定した大名の地位を築き、そして『天下の三賢侯』として名を馳せて以来、池田氏は二世紀あまり続いて明治を迎える「江戸期の名門」といえる。

まず彼の祖父である「池田輝政」(1565―1613)は、「西国将軍」、あるいは「姫路宰相、播磨宰相」と称された人物である。関ヶ原の合戦で、東軍(徳川方)についた輝政は姫路五十二万石を与えられる。ここから池田家の近世名門大名としての出発がある。京阪地区の守りの象徴として世界遺産となった名城・姫路城(白鷺城)の大改修を行って、西国の防御の役目も担った。
彼はそれまでの主君が、織田信長、豊臣秀吉(姫路城築城)、秀頼、最後に徳川家康であったので正しく云えば「外様大名」の範疇である。それが、何故に「西国将軍」という呼称されたか。その謎を解く鍵は「徳川家康の第二女・富子」を継室としたことにある。則ち、家康が姻戚上の父親(義父)であること、これは「神君の婿」として、秀吉陣営から乖離を願った『神経質な家康』(南條幸弘・三島森田病院勤務の精神科医)の慎重かつ周到な判断による「政略結婚」によるものであった。この背景は岡山藩や藩主の池田氏研究の第一人者・谷口澄夫岡山大学教授の著書(岡山藩・吉川弘文館)に詳しいが、富子が光政の父である忠継を生んだのである。忠継の兄利隆(母は糸子)姫路藩主として残った。関ヶ原の論功行賞で家康は輝政に播磨か美濃の何れかを輝政の望みに任せたが、「老臣・伊木長門清兵衛」が、大方の美濃希望者(輝政と老臣)たちを説得し播磨の地を選んだ。そして播磨、備前(利隆の備前監国)、淡路を支配する俗称「百万石」の大大名となったのである。
180202池田輝政180202池田光政と熊沢蕃山


さて本題の池田光政は、寛永九年の岡山移封から寛文十二年(1672)の致仕までの四十年間、藩主として岡山藩政の確立をはかったが、さらに天和二年(1682)までの十年間、西の丸にあって政治に関与したので「半世紀」もの長期間にわたって統治者として君臨し続けたのである。二代将軍秀忠の養女・鶴子を母に、勝子(母は秀忠の女・千姫)との婚儀、そして三代将軍家光の偏諱一字を賜いそれまでの幸隆を「光政」と改めた。このように記述すると将軍家と池田氏は祖父の輝政、光政ともに将軍家との姻戚関係があるので特別な待遇であったかというと必ずしもそうでなく、複雑微妙な問題が伏在していたのである。
だが、光政は幼児から「唯人ならず」の非凡さを評価されていた。

一般に徳川家康は関ヶ原に戦いに勝利して、その後「征夷大将軍」の宣下を受けて大名政策が具体化していくのであるが、普通は親藩(御三家含む)、譜代、外様と区分けし、譜代で幕閣を構成させて、外様を冷遇した印象があるが、それは実は「徳川幕藩体制維持策」であって、冷遇というのは当たらない。南條先生が「徳川家康神経質説」を唱えたように、体制維持に非常に神経を使ったのである。覇道で奪い取った天下人の危うさを極端に警戒していたのである。「三方原の敗戦」の失敗を繰り返さないために、「しかみ像」を保存したのもそれと軌を一にするものと考えてよい。そのために精巧な大名統制策をとったのである。将に「覇道は覇道によって破れる」事を知悉していたので、大藩の経済力をそぐために、江戸からの遠距離に配置し、隣接には信頼できる譜代大名や親藩に「にらみ」を効かせていたのである。

参勤交代、正室の領国への帰国不可(江戸上屋敷に常駐・人質化)、「偏諱政策」、「普請担当政策」で遠距離の外様への経済的負担を負わせたのはすべて「徳川家の長期安泰政策」であった。家康自身、大坂「夏の陣」や「冬の陣」で危険性を孕んだ豊臣氏を滅ぼしたことからわかるように、危険性の除去を意図したものであった。それでも家康は「西国の外様大藩」への危惧が去らなくて、臨終の時西方を向き、反逆の危険性におびえつつ死去したという。

果たして二世紀半経過して、海防の無策等から外様の幕政への容喙を招き、瓦解したのである。幕末維新期の西南雄藩は「薩長土肥」はすべて外様大名であった。「改易」による大名取り潰しもその一環で、武断政治により反逆を封じ込める政策を採ったのである。婚姻政策もそれで、徳川将軍家は危険と裏腹の関係であった。八代将軍の吉宗以降、改易が大きく減少したのも反逆の危険性が低下したことの表れでもある。そうした中で岡山藩政の確立に功績のあった池田光政を知ることの意味は意義がある。池田光政も「松平」を名乗る(家光の偏諱を賜る)ことが許され、将軍家との婚姻政策もその例外でない。だが、光政に見られる如く藩の新田開発や学問の奨励による「仁政政策」は、長期的には「藩の自立化」が進み幕府の統制策は「そろりそろり」と浸蝕されていくのである。幕府自身が吉宗の統治時代に「米の収穫」がピークに達し、収入の増額が限界に達していた。それゆえに、田沼政治にみられる重商主義の時代を迎えることになる。したがって、田沼政治への批判としての「寛政の改革」は吉宗の「享保の改革」への回帰指向が政策の理念となった。

こうした幕府の一連の変容過程を念頭において、岡山藩ならびに池田光政を見ることは幕藩体制確立期の武断政治下での名君と称される光政の政治が、時代に先駆けたものとして改革的な性格を持つと考えられる。まず彼の学問の修行から見ていくと、『孟子』のことばに「民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」ということばが「尽心章句下」に出てくる。これと関連したような逸話が光政にある。『有斐録』という本に「十四歳の頃、彼は寝所に入っても容易に眠れず、暁に及んでようやくまどろむという状態が続いた。近侍の者たちが怪しんでその理由を尋ねたが答えが得られなかった。ところがある夜から特に熟睡するようになり、再びその理由を尋ねたところ、光政はこのような大国を治め、民をいかがして養うべきかと、心をつくして思慮した結果、「君主の儒」となりて国民を教え安んずべき」を知って煩悶が解決したという。また当時の京都所司代であった板倉勝重に「治国の要諦」について質問したという。板倉が「大国の領主として寛仁の徳」が大切と教え、それを心がけたと言われる。

「道を学んで独り己を修めるのみでなく、天下を以て自己の任とし、天下を善くしようと決意した」との考えに達し、儒学を崇敬したのである。陽明学の大家、中江藤樹を招聘しようとしたのもその表れである。後に熊沢蕃山が光政に特別な待遇を受けたのも同様で、藤樹の長子も次子も岡山に賓客として招かれている。中江藤樹を尊敬すること尋常でなく、その死後は位牌を西の丸に祀ったと言われる。「寛政異学の禁」で朱子学を官学と規定する前だったが、「幕府は快く」思わなかったようである。だが信念は揺らがずに陽明学を信奉した。光政の晩年になって幕府の干渉も危険視して、謀反の風説が流れ、やむなく朱子学に妥協(転向)した形となった。そこには林家の中傷・非難も絡んでいたことは容易に想像される。

また光政は藩校設置のトップランナーとして知られ、「閑谷学校」や「花畠教場」は寛永から寛文年間の開学であった。光政は広く領民の教化策を視野に入れたもので、これも名君として称えられる理由の一つになっている。藩政の理念には「仁政によって人民に知足安分の生活をさせることが、則ち将軍への忠」と確信していたとされ、次の農政についての逸話はそれを証してくれる。領内巡検で郡奉行に稲の品種を尋ね、答えられなかった奉行に、後になって百姓に尋ねて確認したところ、百姓は殿(光政)の云うとおりと答えたので、農政の第一線の責任者の郡奉行の不勉強を嘆いたと言われる。これも単なる好学でなく、民とともに国政の充実を願った光政の人となりを偲ばせてくれる。

また外様大名でありながら、時の大老である酒井忠清に対して専横(当時下馬将軍とも言われた)を忠告する建白書「八ヶ条」も書いている。これも仁政のあり方を探求する名君ぶりだが、その一つに「高慢な態度を捨てて他人の意見を傾聴すること」というのがある。自らの藩においては「諫箱」を設置して、民の声を政治に反映させようとする努力、政治手法で後の徳川吉宗の「目安箱」の先駆けと言って良い。武断政治から文治政治への移行期とはいえ、光政の藩主としてのあり方には模範的なものがあり、半世紀後の名君「上杉鷹山」を彷彿させるものがある。

今回は池田光政の功績全体を語ることはできないが、これまでの書き綴ったなかに理想の君主像を見ることができると思う。幕府が武力を背景とした「臣従」を強いることに一方では従い、半面では仁政のあり方の不足した専権ぶりにもしっかりとした信念で忠告する諸侯は親藩の立場でも簡単にできることではない。江戸期の藩政改革を進めた名君の諸相にもいろいろあるが、初期においてこれだけの治績をあげた第一級の藩主としては、池田光政はその筆頭レベルに数えられる「名君」といってよい。


【吉田松陰と知行合一】
【2017/12/29 15:03】 エッセイ
吉田松陰の教育と「知行合一」の教え

吉田松陰の松下村塾における教育では、学問の目的を明確にして、ともに学ぶ姿勢を説明しながら「学者になってはいかぬ、人は実行が大切である」として、学んだことの成果が人生の実際に生かされなければ意味がないという実学を教えました。従って、学問の為の学問は否定する考え方でありました。江戸に修業に行った時に、「江戸の学者は知識を切り売りしている」という事に、大きな不満を持ったことがありました。そして世の中の動静に対して全く無関心である学者の姿に、失望を覚えたのでした。「知行合一」の教えに賛同した翌年の事ですから、なおさらに残念な思いを抱いたことと思われます。
170331正装の吉田松陰150821松下村塾松陰の立志実践教育知行合一


さて「知行合一」を掲げる陽明学を提唱したのは、中国の「明」の時代の思想家であり、高級官吏でもあった「王陽明」という人です。これは「伝習録」として門下生との問答録の記録として日本でも出版されています。江戸時代は「朱子学」が官学として幕府の勧めるところでありましたので、陽明学は一部の知識層にしか普及しませんでした。松陰が陽明学に出会ったのは嘉永三年(一八五〇)、平戸藩の家老であった葉山佐内という人物の下で修業旅行をした時でした。この時松陰は二四歳でしたが、筆まめな松陰はこの半年間の修業期間のことを記録した『西遊日記』に克明に書き残しています。
平戸に到着したその晩に早速葉山佐内から伝習録を借り、熱心に読んだことが記されています。少し話が脱線しますが、この陽明学というのは、幕末になって多くの志士といわれる人に影響を与えました。有名なところでは吉田松陰の他に、大塩平八郎、西郷隆盛、久坂玄瑞、高杉晋作、山田方谷、河井継之助などが熱心な信奉者として知られています。昭和に入ってからは作家の三島由紀夫が「革命哲学としての陽明学」をいう本を書きました。三島由紀夫もまた陽明学の信奉者の一人といえるでしょう。昭和45年11月25日の市谷での割腹自殺は、まさしく陽明学の影響と考えられます。陽明学は学んだことを信じて「行動の実践」に結びつけるというところに特長があります。すこし難しい表現ですが「主観の完全燃焼」と言い換えることが出来ます。
自分の信念をゆるがせにしない生き方に繋がるわけです。ですから時にその行動は死をも恐れないという一面があります。幕末の動乱期はこのような「命懸け」の行動の連続でもありました。松陰が国禁を犯してまで密航を企てた背景には陽明学的な考え方があったといえるでしょう。このような経緯があって松陰は塾生に「知行合一」という考えを日々の学習の中で自然な形で教えて行ったのです。松陰の人材育成のありかたは決して難しく考える必要はなく、普段の何気ない日常の生活の中で、いつも「言行一致」の行動をとることでありましたから、無言の説得力となって塾生の先生に対する信頼を拡大して行きました。そうした中で塾生の人間的成長を願ったのでありました。

塾生の成長度合いや能力を見極めながら判断して教材を適宜に選んで読ませ、一人一人に課題を授けて、自分で考えて解決するという能力開発を願っていたのです。そうして読書が終了すると、感想や自分の立場から批評させて、一緒になって議論し合うというものでした。このように松陰の教育は、教えるという姿勢よりも一緒になって学び合い、その議論の中から塾生に学び取らせるという自主性を重んじるものでした。私達は「陽明学」というと、いかにも難しい学問のような印象を持つかもしれませんが、必ずしもそうではなく、「知識と行動」の一体的な調和を説いているものであることを理解出来ればそれで良いと思います。

学んで得た成果とその行動が、自分をより人間的な成長を促す建設的なものであれば、それは他者への貢献となって信頼されることになります。因みに筆者の勤務する大学は「知行合一」を校是・建学の精神に掲げていまして「吉田松陰論」という珍しい履修科目が設置されております。看護学部もありましてこの学部では「必修科目」の扱いで吉田松陰論の単位を取得しませんと卒業できないようになっています。松陰は「学問の大禁忌は作輟(さくてつ)なり」といって、学問をやったりやらなかったりする態度を厳しく戒めました。それだけに学生の皆さんは、必死でこの科目を勉強します。吉田松陰の勉強をすることは「汲めども尽きない」井戸のように、沢山の教えが「こんこんと」湧き出てくるのです。


2018年度大東文化大学・オープンカレッジ
【2017/12/03 10:02】 エッセイ
【2018年度の大東文化大学】オープンカレッジ

171203大東文化会館1171203大東文化会館2



2017年11月29日、来年度のオープンカレッジの講師担当依頼が届く。演題と内容を思案した挙句【江戸時代の名君研究】として、「伊達政宗」「池田光政」「徳川吉宗」「上杉鷹山」「島津斉彬」を取り上げることにする。江戸期の幕藩体制の創成期に名君としての誉れが高い5人を取り上げて、時代とどのように格闘したかを検証したい。先ず、「名君の条件」を定義するとしても、一口に名君とはいえ、実はその生きた時代によって、名君の条件や内容、人物評価は異なる。260年余り続いた長い徳川時代は、その創成期と中期、幕末では「君主の在り方」が異なるだろう。
まず最初に取り上げるのは「奥羽の覇者・伊達政宗」としてみる。戦国時代末期に生を受け、群雄割拠の一方の旗頭として君臨していた「芦名氏」を「摺上原」の戦いで破り、芦名氏の拠点だった黒川城(会津若松)を奪い、そこを拠点とするも、豊臣秀吉の「小田原征伐」の参戦に遅刻し、「箱根底倉」に謹慎させられる怒りを買う。
この時の秀吉謁見を願い出た政宗の姿は髪は「かぶろ」で、短く切り揃えて垂れたものとし、甲冑の上に白麻の陣羽織を着た「死装束」で死を覚悟した、いでたちであったという。小田原参陣をめぐって、家臣の主戦論と参陣を主張する説に別れ、片倉景綱に従って、遅れての参陣となった。その結果、黒川城を没収され、ふたたび自分の生誕地であった米沢に戻る。
その黒川城に入ったのは蒲生氏郷であった。小田原征伐の終了で、残るは奥羽地方のみとなる。小田原参陣しなかった「葛西晴信」や「大崎義隆」は勢力も大きく、名族でもあったので彼らの所領は没収された。これを「奥羽仕置」という。しかしその後に入ってきたのが木村吉清、清久父子という「俄大名」で、それまでは五千石の大名であったが一躍、三十万石に抜擢された。そのため統治力不足は否めず「葛西・大崎一揆」が勃発し、佐沼城に閉じ込める事態が起きた。
これを鎮圧すべく、蒲生氏郷と伊達政宗は軍陣を整える準備を始めるも政宗の家臣須田伯耆が伊達政宗を裏切る。
即ち、「葛西・大崎一揆」を裏で扇動しているのは伊達政宗であると、書状を添えて蒲生氏郷に持参した。
やむなく蒲生は単独で(奥羽仕置責任者)木村父子を攻め落とし、そこ「名生城」に籠るが、最終的に政宗は秀吉からも嫌疑がかかり、詰問をうけるが「花押」のカラクリを説明して危機を切り抜ける。
そして旧葛西・大崎領十二郡を秀吉から与えられて、五十八万石を確保出来たのであった。
これが「岩出山城」である。実は、秀吉も徳川家康も、一揆の扇動者が政宗であったことを見抜いていたが、全国制覇達成に、政宗を利用しようとする度量の大きい政略だったのである。
やがて、秀吉が死去し、徳川の天下を迎えるが、政宗は長女の「五郎八姫」と家康の六男「忠輝」の婚約を成立させている。
これが秀吉死後の掟(申合せ)に違反していることから、石田光成や前田利家などから詰問されるが、いざござを切り抜けて関ヶ原の戦いに発展し、政宗は東軍につく。敵将の一人「上杉景勝」への備えを任務(上杉を会津にくぎ付け)とした政宗は、家康から勝利の暁には七か所を与えるとの「覚書」を貰った。この石高は四十九万石なので、旧領地の五十八万石と合算すると百七万石となり、「百万石大名」となる処だったが、政宗の失敗も絡んで二万石の加増にとどまり、「百万石のお墨付き」は実現せず「岩出山」城主に居を構え、近世大名として出発する。そして「千代」に移り青葉山を居城として「伊達六十二万石」の外様三大大名の一人として、幕末まで続く。これが現在の「仙台市」となって伊達の城下町として現在もなお発展して、東北最大の都市となる。


【戊午の密勅】
【2017/11/05 14:34】 エッセイ
【戊午の密勅】

安政戊午五年(1858)八月、孝明天皇は幕府が朝廷(天皇)に無断で「米国総領事・ハリス」と調印をしたことに激しく怒った。幕府は同年六月九日、江戸湾上で「日米通商条約および貿易章程を締結」し、これを「宿継ぎ」という方法で朝廷に報告した。事後報告である。

これに対して孝明天皇は譲位を云い出すほどであった。それは、この年二月九日、幕府は老中・堀田正睦を勅許奏請の為に上京させて参内させた。然し、勅許は得られずに堀田は四月江戸に帰った。この時に朝廷は「条約調印は三家以下諸大名の意見を奏した後、再度の勅許を請うべし」と堀田に示した。この直後、大老・井伊直弼は反対派を押し切って勅許のないまま締結したといういきさつがあった。
こうしたことから、同年六月二十九日、事情説明の為、三家・大老のうち一人の上京を命じたが、幕府は老中間部詮勝を派遣すると返答したため、長幕関係は険悪となった。

160726橋本左内顏写真170331正装の吉田松陰


こうした折、水戸・越前・薩摩の有志らは幕政改革のための勅諚を水戸藩に下すよう近衛忠煕・三条実万らに入説したことから、「関白九条尚忠」の裁可手続きを経ないで「密勅」となって、八月八日に水戸藩に降下した。(原文には朝廷の最高責任者の関白・九条尚忠の名前はない)二日遅れて幕府宛にも勅諚は出されたが、大老井伊直弼は水戸藩に勅諚の返納を迫った。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、井伊暗殺の秘事が記されていたとされ、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。

以下、原文を記す。

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右様之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國内之治亂如何ト更ニ深被悩叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之様ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家慎中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同様御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪状ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被悩宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候様被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、内憂有之候而者、殊更深被悩宸襟候。彼是國家之大事ニ候間、大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之様、德川御家ヲ扶助有之内ヲ整、外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候。早々可致商議勅諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣、鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


これを読み下してみる。
先般墨夷との假条約は、余儀なき次第にて、神奈川に於て調印し使節へ渡され候儀、猶又委細は間部下総守が上京に及ばれ言上の趣に候えども、先達て勅答に諸大名と衆議を聞かされたく仰せ出で候所、詮議も之無く、誠に以て皇國重大の儀を調印の後に言上とは大樹公(幕府・将軍)が叡慮のお伺いの趣意も相立たず、尤も勅答の次第に相背き軽率のお取計いは大樹公賢明の所、有志の心得如何と御不審に思召され候。右のような次第にて、蠻夷狄の者、暫くさし置いて今国内の治乱は如何と更に深く叡慮(天皇)を悩まし候。何卒公武の実情を尽くされ、御合体を永久安全の様にと偏に思召され候。三家或は大老が上京を仰せ出され候所、水戸尾張両家は慎んでこの趣を聞き及び、且つ又其の餘宗室(将軍家)の向きにも同様の御沙汰の由も聞かれたく候。右の者は何等の罪状に候や、計り難く候えども、将軍を補佐の面々は、今こそ外夷はこれからの入港も容易ならぬ時節で既に人心の帰向にも相拘るべく、傍ら宸襟を悩ませ候。かねて三家以下諸大名の衆議を尽くされたく仰せ出され候所、全く永世の安全は公武御合体にて、叡慮を安んじられ候よう思召され候儀、外慮の計の儀にもこれ無く、内憂これ有り候ては、殊更深く宸襟(天史の心)を悩ませ候。かれこれ国家の大事候あいだ、大老や閣老其の他、三家三卿と家門や列藩の外様と譜代ともども、一同群議の評定これ有るべく誠忠の心を持って、篤と政道を正して、国内平和をいよいよ長く続かせて徳川家を援けるよう整えて外夷の侮りを受けぬよう思召られ候。早々と商議致すべく、この勅諚を下す。安政五戊午年八月八日
近衛左大臣 鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


 東京龍馬会 【第六二回総会&講演会】
【2017/10/07 00:35】 エッセイ
 【第六二回総会&講演会】

平成二十七年七月二十三日(日)、「東京龍馬会の総会」が開かれた。
この席上、私は「吉田松陰と松下村塾」の演題で八十分の講演を行った。
この記事は当日の模様を幹事を務めた方が「報告文の形で」纏めて呉れたものである。
個人情報も含まれているので、該当部分のみを修正して掲載します。

平成二十九年七月二十三日(日)新宿グリーンタワービルの東京ビジネスサービス会議室において、
第六十二回臨時総会&講演会を実施いたしました。
曇天模様の小雨交じりの中、八十名もの方が参加してくださり、会場は熱気に包まれました。
初めに開会の挨拶を修行代表幹事が行い、
今回は勝海舟の玄孫・高山みな子さんの密着取材で、BSジャパンの「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」、
の撮影が入るという説明と、会場の皆さんに撮影の同意を求めました。
臨時総会は佐藤会長の挨拶から始まり、昨年東京龍馬会が30周年を迎えたこと、
「龍馬をご縁に出会いを楽しむ」のもとボランティアで幹事会が年4回の龍馬タイムズ発行、
年2回の総会&講演会、2回の史跡探訪を行っている事などを説明し、
修行代表幹事が、事業報告、役員・来賓紹介、新幹事紹介を行いました。
また、山村竜也顧問が『龍馬ガイドブック』出版について、
「今までに龍馬の全国の史跡を一冊にまとめたガイド本はないに等しいので、
東京龍馬会で作る意義は大きく、それには皆さんのご協力が不可欠です!」と熱く語られました。
170723第62回東京龍馬会総会と「吉田松陰と松下村塾」の講演170331正装の吉田松陰170506舟で漕ぎだす松陰と金子 弁天島の絵


講演会は、長谷川勤先生(松蔭大学・吉田松陰教育研究センター客員教授)を講師に迎え、
『吉田松陰と松下村塾』についてお話しいただきました。
長谷川先生は、生まれて初めて夏風邪を引かれたそうで、
まだ声が嗄れている中、2時間近くにわたり熱弁をふるってくださいました。
歴史が大好きなサラリーマンだった先生が、松蔭大学にスカウトされたのは13年前。
とある会で歴史談義をしたら、講師の方より詳しくて、まだ会社勤務をしていた先生に、
「是非、土曜だけでも講師をしてくれないか?」、と懇願されたのだそうです。
坂本龍馬と吉田松陰の違いは、龍馬の資料は各地に散らばる手紙だけであり、
そのため坂本龍馬を100人が語ると100人が違う、
けれども、松陰は松陰全集が残されているためあまり変わらないという話は興味深かったです。
松陰全集は、昭和十一年版(全文漢文)、昭和十四、昭和四十八年の3回出版されているそうですが、
先生はそれを全部お持ちで主要論文をパソコン入力し、ルビをふり、
松陰がしたようにわかりやすい言葉にして学生に講義をしているといいます。
その成果か、受講者が1000人を超え大学からお祝いをされたとか…。
最初に松陰の伝記を書いたのは徳富蘇峰で、明治二十六年に出版されていますが、
日清・日露戦争を経た明治四十一年に、乃木希典や入江杉蔵に、
「松陰を革命児と呼ぶのはイメージがよくないので書き直せ!」と命じられ、
明治四十一年にやむなく改定本をだしたこと、
先生のご出身の村の人が、初代群馬県令・楫取素彦の妻・寿(松陰の妹)に、
松陰の守り刀を託されて渡米したことなど、長谷川先生ならではの貴重なお話をお聴きすることができました。
幕末から明治にかけて活躍した人材を育て、自身は海外に行くことがかなわなかった点、
松陰と龍馬は似ているかもしれませんね。
講演会は大盛況のうちに終わりましたが、先生は時間内に質問できなかった方々にも丁寧に説明されていました。
 懇親会は場所を移し「龍馬 はなの舞 西新宿店」で催されました。
長谷川先生や山村顧問、高山みな子さんにも参加していただき、
BSジャパンの撮影クルーも引き続き同行して賑やかな懇親会となりました。
今回、谷干城のご子孫・谷光弘さんが初参加とあって、修行代表幹事からが皆さんにご紹介がありました。
谷さんと高山さんは、どうやら勝海舟と谷干城の繋がりの話で大いに盛り上がったようです。
勝海舟の日記に何度も谷干城の名が書かれているとか…。
そして、皆さんが飲んで食べて盛り上がっている中、BSジャパンの撮影クルーは、
何も口にせず黙々と撮影を続けていました。BSジャパンのお二人、ご苦労様でした!
残念ながら、本タイムズ発行時には放映は終わっていますが、
8月12日(土)21:00~23:00放送の「THE末裔 ~歴史偉人のDNAを追う~」を楽しみにしています!
今秋、なんと、長谷川先生は大東文化大学秋期講座で坂本龍馬を取り上げるそうです。
[講座名] 『坂本龍馬と幕末維新のヒーローたち』
[場所]   大東文化会館 〒175-0083 東京都板橋区徳丸2-4-21
[日時]   11/11, 18 12/2, 9, 16 (いずれも土曜日の13:30~15:00) の5回。
[パンフレット請求] 大東文化会館地域連携センター TEL: 03-5399-7399
Mail: chiiki@jm.daito.ac,jp HP: http//www.daito/ac/jp
                                 幹事 本下



『明治維新を再考する』②
【2017/09/18 11:20】 エッセイ
明治維新を再考する②

明治維新は、どこにその基点を求めるべきか、学界でも色々な主張がなされているようである。
それらを列挙してみると、以下のようになる。

3ラクスマン一行樣来航図松平定信170918レザノフ



①最も早いのが、『政治史的起点』としての寛政の改革に求める考え方。
これは、寛政4(1792)年ロシア使節ラクスマンが「エカテリーナ二世」の親書を持参し、尚且つ、日本人漂流民である伊勢の人「大黒屋光大夫」の送還を兼ねて「根室」に来航し、交易を求めたことによる。
幕府は、「ラクスマン一行」を役7カ月待たせた上に、「信牌」を公布した。
これは、幕府が公式に「長崎港」に入港を許可したものとして注目される。時の幕閣の責任者、「松平定信」は、「開国を覚悟」したと伝えられる。
漸く、「海防が政治的日程に上った」という意味で、対阿外政策の変更を検討したという意味で、画期的なものとされる。
幸いにして、ラクスマンは、長崎に立ち寄ることなく帰国したので事なきを得た。然し、文化元年(い804)に、この信牌の写しを持参してレザノフが長崎に来航、前回のラクスマン同様漂流民を護送してきたのである。「人道的観点」からの、「通商拒否」が困難になるとのロシア側の作戦でもあったが、半年近くを待たせた挙句、強制退去ということになった。此の時点で、幕閣の責任者はすでに松平定信でなく、「寛政の遺臣」といわれる老中たちであった。対外政策に精通していなかったこと、海外情報が十分でなかったこと、とりわけ「オランダの東インド会社」の衰退によって、「オランダ風説書」が欧州事情を十分に伝えられなかったことも考えられる。幕府の強制退去命令に怒ったレザノフは帰国途次、蝦夷や樺太で狼藉を働き「外交上の礼儀を弁えない」幕府への嫌がらせとなって、幕府は非常な危機感を抱くことになる。以後、連続的に日本近海に船舶が現れることになる。
とりわけ、「フェートン号事件」(文化5年・1808)事件は、遠国奉行たる「長崎奉行」の切腹事件と云う、幕府の対外政策を見直すべき事件であったが、後の「アヘン戦争情報」や「フェートン号事件」、と幕府の対外政策は深刻の度を増してゆく。天保の改革という、内政の失敗によって、幕府は次第に統治力を失って行くことになる。
以下、順を追って書きついで行くことにするが、特に対対外政策の破綻を軸にしたもので明治維新の原因の一端を追ってみる。

『明治維新を』考える
【2017/08/20 09:58】 エッセイ
「明治維新を再考する」①

歴史は常に勝者の側から「過去の記述」が行われる。そうして、築き上げたその新体制が続く限り「礼賛型の史観」が生き続ける。明治維新は、封建的な「徳川幕藩体制」を打倒して「近代国民国家」を築あげたのであったが、それは「世界的な視点」から捕えないと間違う危険性が孕んでいる。徳川幕府(幕閣)は、俗に300諸侯といわれるように最大の経済力と軍事力に裏付けられた「大名としての徳川氏」が、他の大名を屈服させ、臣従させた統治体制であった。そして領地を与えられた大名に、大幅な自治権を持たせ、それを身分制度による分業システムにとって分国統治させ、国家的・公共的事業等は「使役」として各大名に負担させた。宝暦年間の「木曽川治水工事」を薩摩藩に課したのがその典型である。「武家諸法度」や「禁中幷に公家諸法度」の法令は統制策の一環として理解すべき性質のものであった。さらに「参勤交代」や「勅使」を制度に組み込んで国内体制を維持し、対外政策は寛永年間に「キリスト教流入制限」を主目的としつつオランダや中国等に貿易港を長崎に限定した管理貿易システムを取った。それらの国内外政策を制度化し、安定化させるのに半世紀以上の日月を要した。将軍の代でいえば、四代将軍・徳川家綱の時代に一応完成を見たと云える。
170824前田藩格家家紋2170824薩摩藩

徳川時代を一代で現出させた「家康」は、この天下を安定的に維持していくために「反乱分子」の危険性を持つ豊臣系の大名たちを「取り潰し」、「徳川に刃向う事の危険性」を実例で以て示した。それは反面「力の誇示」でもあり、臣従強制策の面を併せ持った。それは一般には「武断政治」といわれる。それ故に、反乱を起こさせない体制は「二世紀半」もの長期にわたる「外見上の平和」が保たれていたのであった。本質的には「覇道主義」であって、「徳治主義による王道政治」とは異なる。したがって、「対外政策の破綻」から統治の牙城を崩され、権力の衰退を「天保の改革の失敗」等でもさらけ出した。「海防」が考え方や、実践論としても政権当初からのものと大差がなかった。各大名に地域をしていして守らせるとしても、全日本としての海防体制は遂に最後まで築きあげられなかった。
170824伊達藩家紋2170824毛利藩家紋


対外政策の破綻は、徳川幕藩体制が当初から持っていた宿命的なものであった。鎖国制度の実施当初はとれで大きな問題はなかったが、なにせ二世紀半と云う長い「徳川政治」が続いている間に、西欧社会は「市民革命」を経験し、人権思想と「合理主義的精神」を発展させた。そのうえに咲いた「第一次産業革命」によって、資本主義(ある意味では近代市民社会)国家を形成した。それは「資源の輸入と製品の販売先の探索」となってくる。英国でまず「綿織物工業」を「動力革命」で発展させたのがその始まりであった。世界の七つの海を制覇した「島国・米国」その国土面積は日本と大して変わらない。製品の輸出先として東アジアにその矛先が向けられたのも故なしとしない。

一方で、米国は18世紀後半の、英国本国からの独立に始まり、開拓者精神と相俟って欧州同様の産業化が進んだ。南に隣接するメキシコとの「米墨戦争」に勝利して、太平洋航路が開けた。それはテキサス併合に始まり、カリフォルニアやニューメキシコ州の併合となって国力は新興国家の大いなる勃興と繁栄の道を開いた。欧州が、隣国との戦争に国力の停滞(英仏を除き)の合間をぬって新興国としての米国が東アジアへの航路の確保から、海外進出を企てたのも多分に好都合に作用したと云える。ナポレオン戦争の余波は、オランダ併合となり「東インド会社」の前線基地としての没落に入れ替わって英国の台頭となる。アヘン戦争が天保の改革の直前に起ったことと、日本の幕末を現出したことは無関係ではない。こうした世界の勢力地図の変遷を徳川幕閣はどの程度まで詳細に知っていたか、18世紀後半から始まる、西欧諸国の日本近海への出没が「何を意味しているか」という、根本的な問いはなされず、稚拙な海防政策が徳川治世の当初に比して大きく進展していなかったことにも原因を求めることが出来る。つまり極端な「内政重視型」の統治体制はそのまま引き継がれたのである。したがって、「オランダ国王の開国勧告」も受け入れないでおわった。「ペリーの来航」で、近代海軍の戦闘能力を確認することで、鎖国制度は終了する。中央集権による、国家としての軍備を持たなかった所に徳川政治の対外政策の盲点ともいえるものが克服できなかった。従って、明治新政府が西欧先進諸国の「近代的軍隊」をいち早く取り入れたのも、徳川幕藩体制の海防の脆弱性を克服すべく、体制整備することが喫緊の課題であったのであった。


「秋月種茂」と「上杉鷹山」兄弟のこと
【2017/07/19 17:06】 エッセイ
「秋月種茂」と「上杉鷹山」兄弟

本年四月、高鍋出身の先輩から「秋月家」や「高鍋藩」の話をいろいろと聞かせて頂いた。上杉鷹山は「江戸期の代表的名君」として危機に瀕していた出羽の国「米沢」の藩主・上杉家を継いで、藩主や藩主の後見役に在る事およそ半世紀を掛けて負債を消滅させた。これは誰でも知っている鷹山の伝記で、三十五歳で家督を譲る時に書き遺した「伝国の辞」は夙に有名で、米国のケネディ元大統領をして「尊敬する日本人」として称賛された。
ところが、実兄の「秋月種茂」も負けず劣らずの名君で、高鍋藩の二百五十年で全盛期を現出した。弟の鷹山も兄を尊敬すること一方ならぬことがあったという。
170609秋月種茂170309上杉鷹山立像170820高鍋藩史話2


以下、『高鍋藩史話』(安田尚義著・鉱脈社)の解説(石川正雄)から引用して記す。
高鍋藩で種茂公のことを清観公と尊称するのは、その法名が「清観院殿」であるからで、敬愛をこめている呼び方である。治憲公を鷹山公というのはその雅号を称しているのである。清観公の雅号は鶴山という。だから「鶴山公と鷹山公」と云うのが良いかも知れない。鷹山公の幼名は松三郎と云い、種茂公八歳年長の実兄である。松三郎が九歳の時、遠い米沢の上杉家に養子に迎えられたのは次のような事情であった。
 高鍋藩第六代藩主秋月種美の夫人は、筑前黒田家の分家秋月城主黒田長貞(三代目)の二女ハル子で、その母瑞耀院は第五代米沢藩主・上杉綱紀の娘であった。瑞耀院は米沢藩の当主上杉重定に向かい「御身男児おわさず、養子の御意ありと聞き侍る。余が外孫秋月佐渡守の二男松三郎は今年九歳なれど発明にして、且つ孝心殊勝なり。且つその遊戯する所尋常の小児に似ず、人皆奇異の生まれと誉めぬはなし。御身の娘幸姫に取り合わせ世嗣となし給わらば如何ばかりうれしからん」と言ったという。「重定公は大いに悦び給い、御養子に定められしとぞ」(『鷹山公偉蹟録』)松三郎は重定にとって従兄弟の子、上杉家から言えば曾孫に当る。忽ち内約が成立した。宝暦九年(一七五九)三月、重定四十一歳、幸姫七歳であった。
高鍋藩家老三好善太夫重道は若君の上杉家入りを心から悦び、お祝いと訓言を差し上げた。三好善太夫が訓言を差し上げたのは二度である。最初はこの時で「わが家より養家を大切にすべき」心得を述べ、二度目は松三郎が上杉家入りの時、「奉贐書」を差し上げた。この二つの訓言には善太夫の教養と人間性がにじみ出ている。治憲はこれを座右に置いてみずからの戒めとしていたという。
 当時の米沢藩は経済的に窮乏し、五両の金さえ思うようにならず、参勤交代に供する諸士達はその費用の自弁を余儀なくされていた。治憲は米沢藩復興のため艱難に耐えて行くのである。治憲は実兄清観公を尊敬し、「兄の才識は余の到底及ぶところではない。幸いに世に知られるに至ったのは、上杉の家名と大藩であった故とによるもので、恥ずかしい」と言っていたと伝えられている。
清観公種茂は、種信が藩政の正常化に成功し、種政が産業を復興させ、祖父種弘と父種美が文化の基礎を固め、英才を他国に留学させる等、幾多の蓄積の後を受け、存分に経綸を行うことが出来、高鍋藩の黄金時代を現出し、スケールの大きい、余裕のある魅力に満ちた人物になっている。
なお、この兄弟は学問の興隆にも意を用い米沢に在っては「興譲館」高鍋に於ては「明倫堂」の伝統を受け継ぎ、二百年余りを経た今日も「山形県立米沢興譲館高校」と「宮崎県立高鍋高校」として両校の交流が続き、ともに伝統校の名に相応しい進学実績を挙げている。素晴らしいことと讃辞を送りたくなる。


吉田松陰の【国を想う心】
【2017/06/23 18:38】 エッセイ
『吉田松陰の国を想う心』

吉田松陰は、「国を想う志」に生きた人であった。安政六(一八五九)年十月二十七日「政治犯」として幕府から処刑された。数え年で三十歳の若さであった。松下村塾の第三代目に当たる主宰者として多くの俊秀たちを育成し、処刑前日に書き上げた『留魂録』で門下生や「江戸獄」での同囚であった志士たちに後事を託して潔い最期を遂げたと伝えられる。『吉田松陰全集』(大和書房)に、下総佐倉藩の「依田学海日記」や、伊勢の世古格太郎の著になる『唱義見聞録』からの抜粋で吉田寅次郎、長州藩の公用人として幕府評定所での判決に立ち会った小幡高政の談話や吉田松陰の処刑を行った本人である山田淺右衛門の後日談など、幾つか収載されている。それによると世古格太郎のみが、潔い最期に疑問符のつく表現になっているが、他の三著は具体性があり、処刑前に松陰が書きのこした親族や門下生への遺言、絶筆や辞世の句などとの整合性を勘案して見ると、やはり潔い態度であったと思われる。それは、自分の志を精一杯生きたという自分なりの達成感がそうさせたのであろうと思われる。それ故「死罪申渡し」の直後に朗朗と辞世の句を謳いあげ、評定所の関係者たちが「粛然として襟を正す」といった雰囲気が評定所内に醸し出されたという。さらに刑死に臨んできちんとした礼儀正しい態度で、関係者に挨拶を行い、従容として死に就いたと伝えられるのは多くの松陰の伝記が記すところである。

170331正装の吉田松陰150723安藤優一郎著『吉田松陰留魂録』150625松陰と幕末明治の志士たち 小170506吉田松陰韜晦の朝像


その辞世の句こそ、吉田松陰の本質を凝縮しているものであると考えられる。まず、その句を記してみると『吾今国の為に死す、死して君親にそむかず。悠々たり天地の事、鑑照明神にあり』。五言絶句で、漢字二十文字の辞世の句である。この意味する所を記すと「私は今こそ国のために命を捧げよう、死すとも忠君孝養の道から外れることはない。永遠に果てしなく続く、この天地の事を思う時、神々よ私の正しい志行をご覧下さい」という程の意味になる。山鹿流兵学家として、長州藩を守り、さらには日本国を先進国からの侵略の危機から守ることを強く願った吉田松陰ならではの辞世の句で、将に殉難に相応しい内容である。就中アヘン戦争を詳細に研究し西欧諸国の侵略の深謀遠慮を洞察していたがゆえに、彼等のなすがままになる為政者の「事勿れ主義」への批判となって、幕府専制策に反する者を弾圧する刑死と云うことになったのである。

では、兵学家松陰の生涯を概観してみよう。江戸期の武士は長子相続を原則とした。松陰も父の杉百合之助と母たきの次男であり、兄の梅太郎が健在であったことから、早々と父の弟である吉田大助の仮養子となった。翌年に養父は死去したので松陰は吉田家八代目の家督を継ぐこととなった。吉田家の始祖友之充は元禄十三年和漢の兵法に通じていたことから、長州藩主毛利吉廣に召され、後に山鹿藤介に師事して兵学を学んだという経緯がある。したがって松陰の時代は、毛利藩で北條流の多田、山本流の大西の両家とともに、家伝の山鹿流の兵学を藩校明倫館で講ずるのが吉田家の任務であった。
こうした職務であるから藩内の家格も家臣団の中核をなす「大組」に属し、それは生家の杉家より高いものとなったが、幼少の為に松陰は生家に同居することになる。山鹿流軍学師範を宿命づけられたために、その育成には後見人や代理教授が指名されたが、その多くは養父大助の高弟たちであった。とりわけ父の末弟であった玉木文之進は兵学者松陰の育成に心血を注ぎ、幼児に対する教育とはとても思えない程の熱血漢丸出しの厳しい教育だったようで、後年になって松陰が玉木の叔父ほど怖い人はいなかったと回想する程であった。いってみれば今日でいうスパルタ教育そのものであったらしく、机を挟んで対面していて、姿勢が悪いと云っては殴り、居眠りをしようものなら容赦なく体罰を加え、もの覚えが悪いと叱るという厳しい教育であったから、傍らで我が子の姿を見ていた母親が「大次郎は逃げればよいのに」と漏らしていたと伝えられている。五歳や六歳の童子に『孟子』を読ませたと云うから、それは教えを受ける松陰にとっては大変な負荷であり、辛い修業以外の何物でもなかったに違いない。だが「藩主への忠節心」に熱い一途な玉木文之進は、自らも山鹿流の免許皆伝であり、孟子にも造詣の深い文武両道の教養人であった。それが、藩主への奉公に尽くそうと情熱を燃やしたのであるから、その期待に応えようとする幼い松陰には相当な重圧となって、いわゆる普通の「子供時代」を過ごさなかった。松陰死後の後日談で二歳年下の妹「千代」の述懐によると、同年代の友人と遊んでいた記憶がないとのことである。

しかし歯を食いしばって厳しい修業に耐えた松陰は、十一歳の時、藩主の毛利敬親への御前講義(親試)で、居並ぶ藩の重臣たちの期待以上に見事な成果を披露する。勿論藩主も驚きのあまり「この教育担当は誰であるか」と重臣たちに問いかけたという。玉木文之進は自分が厳しい教育をした成果として満たされた感懐だったに違いない。そうして、二十歳で独立師範となるまでの数度の御前講義は全て藩主をして満足させるものであった。長州藩天保の改革を指導したことで知られる藩の先達・村田清風は、松陰の飛躍を期して持論である「四峠の論」を常々説いていた。四峠の論とは三方を連山に囲まれている萩のみでの修業でなく、広く知識や人格の陶冶を求めて江戸や長崎、或は京阪に遊学してその成果を藩主への貢献を為すことこそ肝要であるという意味である。清風の関連書にこの論は出てこないが「口碑」として、長州では広く知られる一種の教育論であった。それが嘉永三年に実現した「鎮西遊学」であり、翌年の「江戸遊学」であった。早速の鎮西遊学は平戸、長崎、熊本、佐賀に山鹿の後裔や碩学、藩校を訪ねたのもそのためである。とりわけ平戸における葉山佐内の下での修業は大きな成果となった。修業時代に西欧国家間の盛衰の実態について説明を受けていただけに、アヘン戦争を始めとする西欧諸国の東洋進出、或はロシアの南下政策等の本を貪るように読破した姿が『西遊日記』に記されている。また師の葉山佐内は有名な陽明学者であり、『伝習録』との出会いは師が人格的にも優れた人物であっただけに松陰にとっては願った通りの誠にありがたいことであった。また、この時に水戸の会澤正志斎の著述になる『新論』にも触れる。長崎ではオランダ船に乗り船内を見物し西欧文明の一端に触れ、また江戸期の唯一世界に開かれた街の見学も怠りなく、生きた学問を目指していた松陰にとっては格好の修業機会となった。なお、江戸期に西国の十四藩は「長崎聞役」という藩の情報掛の役を持つ家臣を派遣しており、長州も「夏詰」という立場ながら蔵屋敷の設置と周辺海域警備の任務を持っていたことも付記しておこう。

長崎、平戸での修業を終えた松陰は、帰路で熊本と佐賀に立ち寄り、末弟の聾唖の治癒を清正廟に祈願している。そして終生の友人となる宮部鼎蔵との邂逅を果す。宮部は松陰の十歳年長ながら、同じ山鹿流の軍学者であった。鎮西遊学は松陰にとって、藩の先達である村田清風の助言は納得のいくものであったに違いない。そうして帰国を果すが、平戸で読んだ書籍が江戸からの購入であったことを知って、翌年に今度は藩主の参勤交代に随って江戸遊学を果す。江戸では長州の藩邸があり、重臣も多く勤務しているので純然たる遊学と云うわけにはいかない。山鹿流師範としての職務もこなしながら、合間をぬって碩学の門を叩き、傍、全国の人材との交流も精力的に行う。佐久間象山との出会いはこうした中で師弟となり、一方では交流仲間から長州人は日本の成り立ちに暗いなどと指摘も受けた。そして、そこで運命の東北海防視察旅行の話が出る。ロシアの南下が津軽に及んで、上陸し狼藉を働き、津軽海峡を我がもの顔で航行しているという。国防意識の高い宮部と松陰は早速、視察のために出発の約束を交わすが、直前になって過所手形の発行が出来ないことに遭遇する。これを強行(脱藩)したことから松陰の人生航路は大変化を来し、藩庁は吉田家取り潰しという厳しい罪科を課す。松陰の大成を願った藩主が「国の宝を失った」と嘆息したのはこの時の事である。そして直ちに「十年間の諸国修業」という粋な計らいを享受する。反面、水戸で会澤正志斎から親しく学び、日本の何たるかを強く認識できた事から古代史の猛烈な読書に取り組んだのであった。
150505佐久間象山150418ペリー尊攘(弘道館)




そうして諸国修業をして、再度江戸に着いた途端に「ペリー来航」に遭遇する。夜を徹して浦賀に駆けつけてペリーの艦隊を具に観察し、西欧の文明や技術に裏打ちされた軍事力の源泉である先進国の視察を思い立つ。然し海外渡航は幕府の厳禁とする所から、ペリーの再度の来航時に下田から密航を企てるが条約締結直後のため、日本の法を犯す事は不可としてペリーは拒否する。この時をもって松陰の人生は自由を失う。藩は幕府に遠慮して親元での謹慎命令を藩獄に収監してしまう。だが、志の高い松陰はめげない。獄中に在って同囚との勉強会や、自身の猛烈な思索と読書は在獄十四カ月に六百十八冊にも上る。この勉強会で『孟子』の講義が、免獄後の松下村塾へと伏線となるのであるから、人生とはどう展開するかわからない。杉家に謹慎となった松陰は親族を相手に『孟子』の講義を完了させる。
安政三年九月、外叔父の久保五郎左衛門の依頼で松陰は『松下村塾記』を執筆、此の時点では松下村塾は松陰の主宰ではない。しかし、内容からすれば松陰の主宰者的思いが綴られているので、この直後に久保から松陰へと引き継がれたと考えてよい。仮に、松下村塾記を起点としても安政五年十二月の閉鎖までの松下村塾での教育活動は二年三ヶ月に過ぎない。幽囚の身で日本を守る悲願は直接行動が出来ない。従って、教育を通じて責任の一端を果すのが松陰の残された唯一の道であった。多くの松陰伝が「教育者」としての側面を強調するが、それは松陰のペリー来航後の難局打開のための行動からやむを得ない人生航路となったのである。後年、多くの国家指導者を輩出したが、松陰は彼らに英才教育を特別に行ったわけでなく、松下村塾記に記したように、君臣の義や華夷の弁をわきまえつつ「奇傑非常の人」の育成をめざし、『学は人たる所以を学ぶなり』として学問への取り組みを奨励したのであった。松下村塾主宰中に書き遺した文稿は迫りくる外圧の難局打開の論策が多いのは兵学家として当然であったが、塾生に対しては問題提起として生きた教材となった。

幕藩体制下にあって松陰は陪臣の身である。一陪臣が国策を公的に論ずることは内容の正否にかかわらず、幕府は厳禁としていた。従って京都の梁川星巌に送った『対策一道』や『愚論』、『続愚論』等の論策が梁川宅に捕縛に向った幕吏によってそれが幕府に押収され、松陰の政治犯扱いが確定的になる。それは安政五年八月のことであった。なお吉田松陰が攘夷論者と理解されることが多いが、松陰は本来開国論者であった。安政五年四月に書かれた『対策一道』には「国家の大計を以て之れを言はんに、雄略を振ひ四夷を馭せんと欲せば、航海通市に非ざれば何を以て為さんや」とあり、富国強兵の実現によって西欧諸国に対する独立不羈の貫徹を願っていたが、ペリーの砲艦外交や幕府の軟弱な対応策への批判から攘夷を唱えたもので、皇室を中心とした新たな国体の実現を模索していたのである。従って安政五年七月の『大義を議す』の論稿で、無断勅許での条約調印を激しく批判して『天勅に反き、外、夷狄を引き、内、諸侯を威す。・・・・・・征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れを何とか謂はん』と、公然と討幕を唱えたのであった。国の為政者たるもの「義を正し、道を明らかにすること」を怠ってはならない。独立国を全うするため、松陰にとっては『勅を奉ずるは道なり、逆を討つは義なり』であって、ここに天朝を尊崇して義や道を明らかにしない幕府は討滅してもやむを得ないとする松陰の国家観があったのである。それにしてもさすがに兵学家である。周到に後継者を育成し、国の将来を門下生に托して「志の継承」を願いつつ波乱に富んだ吉田松陰の生涯は、今なお私達をして感動させずにはおかない。





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